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【再録】関東大震災ですべてを失ったシャープ創業者、シャープペンシルの発明者早川徳次─昭和時代の私の履歴書

2013年03月07日 18:00

【再録】関東大震災ですべてを失ったシャープ創業者、シャープペンシルの発明者早川徳次
─昭和時代の私の履歴書

 (第504号 平成24年1月31日(火)発行)



昭和の偉人たちが何を考え、失敗にどう対処し、
それをいかに乗り越え、どんな成功を収めたのか、

日本経済新聞に掲載されている、
自伝コラム「私の履歴書」から
探ってみたいと思います。


私の履歴書─昭和の経営者群像〈7〉



早川徳次のお話の続きです。


大正元年9月15日に独立した早川は、
その年の暮れにはすでに120円近い収益を上げ、
40円の借金もすぐさま返済します。

翌年には、
水道自在機の新製品をつくりだし、
二度目の特許を獲得。

この製品は非常に売れて、
巻島さんは巨万の資産を作ります。


このころ、早川は巻島さんの仲人で結婚します。

また、兄の早川政治とこのころから、
万年筆の付属金具であるクリップや金輪を出そうと試作をします。

これもまた注文が殺到。

これによって、
大きな機械を購入し、職人も十人を超えます。



大正4年になると、
第一次世界大戦の好景気のさなか、
早川は繰り出し鉛筆の金具を注文されます。

一種のおもちゃのようなものでしたが、
早川の凝り性から、
これを万年筆並みの実用品に仕上げてやろうと、
熱中します。

ねまきのまま、食事も忘れて熱中します。

これが、

「スクリュペンシル」

または

「プロぺリングペンシル」

というものです。


最初はなかなか売れませんでした。
この新製品に対し、文房具屋さんは、

金属だから冬は冷たいだろうとか、
和服にクリップは向かないとか。

銀座の伊東屋へも見本をもっていきますが、
番頭に難癖をつけられます。


しかし三カ月たったころ、
横浜へ出しておいた見本を見て、
商館から、

海外販路が有望だから、
すぐ多量に用意してくれとの依頼が!

夜業に次ぐ夜業。
こうなると逆に内地の問屋があわてだして、
さらなる注文。

間に合わなくなるとプレミアムがつく騒ぎに。


製品は以後次々と改良されます。


これが、


「シャープペンシル」


で、いまでも私たちが使っているシャーペンですね。



大正8年には、
44坪の工場、事務所を新築、
流れ作業を採用します。

各種の優秀な機械が整備され、
能率化、増産が進められます。


大正12年には300坪、従業員は200名になり、
売上げも月額5万円という急激な発展を遂げました。




早川はここで、

「運命というものは全く予測を許さない」


と書いています。

半生をかけたこの事業をすっかり放棄させられることになるわけです。





大正12年9月1日。





早川は近所の巻島さんの家に行っていたところ、
突然爆風にあったような激しい震動におそわれ、
大波の揺れるような地震がおこります。

夢中で工場まで走り戻るも、
外はもう地獄のようなありさま。

倒壊した建物と塵埃が道という道をおおっていました。

やがて火の手があたり一面に広がります。



長くなりますが原文のまま引用します。

───────────────────────
【引用ここから】

容易ならぬ状態がくることはだれもが考えていた。

私はすぐに工場全員に食料品、金、衣類、ふとん、食器など
だれかれとなしに分けて避難させた。

午後二時、火の手は近所まで来た。

まず妻と子供二人(男子で長男が九歳、二男が七歳)を
川本君(辰三郎、現在本社副社長)に託して
深川の岩崎別邸(現在清澄公園)が安全だとみて
避難させることにした。

弟は「おとうちゃんもいっしょに行こうヨー」と
いきなり泣きだしたりした。



川本君の奥さんは懐妊の身でそれに三つの女の子持ちである。

その他泊まり込みの少年店員など
総勢十一人が同君に率いられて岩崎邸の方にかけていった。

最後まで残っていた私は火の手が迫ったので、
冬帽子をかぶってのがれたのだが、
本所名物の掘り割りの橋という橋は荷物と人の渦で
とても通れるような状態ではなかった。

掘り割りに浮く材木伝いに渡ったりして
ようやく高橋のところまで行ったが、
ここから先はもう一歩も動けなかった。

かの岩崎邸を目前に見ながら・・・・・・。

やがてあたり一面の火災に取り囲まれたのである。



結局、私は午後四時ごろからこの高橋の橋脚と橋下の水中、
それに流れよる伝馬船やたらいなどを利用して
かろうじて翌朝まで(そのうち七時間は水中で)
火を避けていたのだった。

この時、橋下での死者はおよそ八百人、
生存者はわずか三、四人で、
その一人が私だった。

苦痛、恐怖、悲愴、およそ耐えられそうもない
あらゆる酷い目にさらされながら
一夜をあかしたのだった。

顔一面と手足についたやけど、
それに両眼も痛めたが、
それでも焼けうせた町をようやく通りぬけて岩崎邸にたどりつき
避難者にまじる工場の人たちに会った。



一方川本君たちも悲惨であった。
同君はついに奥さんとひとりの女子をなくし

私の子供二人も掘り割りの中で
火にかむさって不帰のものとなった。

妻は半病人となって助かったが、
しばらく後にやはり死んでいった


(天災は忘れられたころに来る。
 大都市の災害にははかり知れぬ恐ろしいものがある。

 わが国の大都市の現状を考え、
 かの時の惨状を思い合わすと、
 時に寒心に耐えない何かを覚えるのである)。



かくして私の工場は根こそぎやられてしまった。

私は一瞬にして事業を失い、
自分の家庭さえもなくしたのである。

三十一歳の時である。


【引用ここまで】
───────────────────────


順調に成長した事業をすべて失い、
家族もすべて失い、

この時の早川の心中はいかばかりかと思うと、
胸が痛みます。


このあと、被災した工員70名をかかえ、
毎日の食糧にも追われるようになります。

時はたっていきますが、
持ち金は減る一方。

すっかり進退に窮します。




のちの人生を知っている私たちからすると、
家庭電器のシャープをつくり、
早川は大成功をするとわかっているわけですが、

この時の早川にはわかるはずもありません。


この大正12年の早川に会えたら、
大丈夫だからがんばれと言ってやりたいわけですが、

平成24年の自分を客観的に考えてみると、
ここからがんばるのは相当厳しいなあと
同じような位置に自分を置いて考えたりもします。


ここが勝負なのでしょうね。


早川のお話、
次回に続けます。








私の履歴書─昭和の経営者群像〈7〉





昭和の高度経済成長を築きあげた経営者たちの
私の履歴書。過去の記事はこちらからどうぞ。




 (第504号 平成24年1月31日(火)発行)












早川徳次(早川電機工業社長)その1─昭和時代の私の履歴書



関東大震災ですべてを失ったシャープ創業者、シャープペンシルの発明者早川徳次─昭和時代の私の履歴書



苦労ばかりの人生は楽しい思い出と化す─シャープ創業者早川徳次(最終回)─昭和時代の私の履歴書

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