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できそこないの梁瀬と創業者の父─梁瀬次郎(ヤナセ社長)その1─昭和時代の私の履歴書

昭和の偉人たちが何を考え、失敗にどう対処し、
それをいかに乗り越え、どんな成功を収めたのか、

日本経済新聞に掲載されている、
自伝コラム「私の履歴書」から
探ってみたいと思います。



私の履歴書─昭和の経営者群像〈8〉



梁瀬 次郎(やなせ じろう、大正5年(1916年)6月28日 - 平成20年(2008年)3月13日)は、日本の実業家。
父親・梁瀬長太郎が設立した株式会社ヤナセの経営を引き継ぎ、
自動車輸入の最大手企業に発展させた。

アメリカ車の販売に寄与したとして、2004年に自動車殿堂入りした。




大正5年群馬県生れ。
昭和14年慶大卒。
父の経営する梁瀬自動車工業に入社。
20年社長。
23年GM車の販売を再開。
外国車輸入の最大手企業に育て上げた。
この間、動画製作の日本テレビジョンを設立。


「私の履歴書」は、昭和59年12月に連載している。


ヤナセといえば、外車好きの方は一度は足を運んだことがあるのではないでしょうか。

私は国産派なのですがそれはともかく、この履歴書を書いた時の梁瀬は、70歳。
創立者である父から会社を受け継ぎ、社長を40年務めたころの履歴書でした。


梁瀬の人生の大半は、
父長太郎に対する反発と抵抗の歴史でもありました。

生まれつき病弱で吃音であった梁瀬に対し、
父は「できそこない」と決めつけ、ことごとくつらく当たったのだそうです。

梁瀬の社長就任に最後までためらい、
経営戦略をめぐっては絶えず対立、
何度も「社長解任」の辞令をもらったのだとか。





このメルマガ読者の中にも、
経営者の方は多くおられることでしょう。

起業家であれば創業者でしょうが、
会社を大きくしていけばいくほど、
後継者をどうすればよいか悩まされます。


二代目経営者の方もおられることでしょう。
創業者と二代目は当然ながら生まれ育った環境が違うため、

性格は正反対、なかなかうまくことをすすめることができない、
そんな悩みを抱えておられる方も多く、私も様々な相談を受けます。


創業者だからよい、
二代目だからダメ、

そんなことはないのですが、
価値観の対立が人間関係の対立に発展することはどの世界でもよくある話です。


私は個人的には、二代目の経営者の方はとても大変だと思っており、
創業者よりもそちらの肩を持ってしまいがちですが、

そんな後継者のみなさんに、
この梁瀬次郎の履歴書は勉強になるのではないかと思っています。





梁瀬の父は、
才人であり、しかも人間的に強かったそうです。

事業のアイデアは湯水のようにわきいで、
強力なリーダーシップを発揮します。

梁瀬はしかし、それは個人プレーの域を出なかったとも思っていました。

梁瀬は青年時代より、


「経営トップより優れた人を常にそばに置いて、
 この人たちの意見を十分に尊重することが大切だ」



と感じていました。
将来いつか父の後を継ぐようになったら、
まったく逆の方向を進もうと決意していたのでした。




梁瀬次郎は、大正5年6月28日に梁瀬長太郎の二男として生まれます。
梁瀬家は、大根と張り子だるまで有名な群馬県碓氷郡豊岡村の旧家でした。

梁瀬家は二十数代、農業、精米そして養鯉などを家業としていました。

祖先は甲州の武田信玄に仕えた士族で、
武田勢が戦いに敗れた時、群馬県まで逃げ、高崎の一歩手前の豊岡村に土着したのだそうです。


梁瀬の父は、梁瀬をしかるときに、

「お前は武田勝頼以下だ。お前の顔など見たくない」

とどなります。

勝頼は武田家滅亡の張本人で、言われた梁瀬の無念さも激しかったのですが、
逆に武田勝頼に対する好奇心も強まり、
勝頼に関する書物を読みあさり、さまざまな教訓を得、経営の一端に生かしたのだそうです。



二男五女の兄弟でしたが、
父は男の子が四人欲しかったらしく、

その四人に英一、雄二、豪三、傑四、すなわち英雄豪傑と名づけようと考えていたのだそうです。

ところが一番目の英雄であるべき英一が、
生後六か月の時、はかなくも隣家の火事が原因で急性肺炎で死亡したので、
次に生まれた梁瀬の時には、もうめんどくさいからと次郎にしてしまえということで名前が決まったのだそうです。

生まれた当時から病弱で、一年のうちほとんどは寝て暮らしている状況。
慶應病院の小児科部長の唐沢光徳先生が母親に、

「中学に入学できるというような期待をかけない方がいい」

と言っていたそうで、また来客のたびに父は必ず、

「いやあ、これはできそこないでね」

と梁瀬を紹介していたのを、子供心に覚えていたのだそうです。



母親は病弱な梁瀬にせめて音楽でもやらせようと、
五歳からピアノのけいこをしますが、
大変厳しい先生で、覚えが悪いと梁瀬をピアノの上において、さっさと帰ってしまいました。

病弱な梁瀬は降りるに降りられず、
一時間も二時間もピアノの上で一人で過ごすことがあったのだそうです。


「どうして男の子のくせにこんな力がない、ひ弱なできそこないになってしまったのだろう」


と自分でもつくづく思ったのでした。



だめな男の子が生まれる直前に、
梁瀬自動車も産声を上げます。

梁瀬の人生同様、会社も平坦な道のりを歩みませんでした。



父長太郎は豊岡村の小学校を卒業し、単身上京、
東京府立一中に入学した人物でした。

農産物を売りアルバイトをしながら、自力で卒業し、
東京高商(現一橋大学)に学びます。

卒業後は大坂商船に入社しますが、
苦学生上がりの人間のところに出入り業者からのツケ届けが引きも切らず、

「このままでは人間だめになる。人に頭を下げる商売に変わろう」

と三井物産に入社し直します。

明治40年にボンベイ勤務を終え帰国し、
三井物産機械部に配属、自動車係となります。

米国のビュイック・モーターカンパニー製のビュイック号の輸入販売を始めますが、
当時はまだまだで、さすがの三井物産も輸入はできても小売りはできず、
当時の金額で200万円以上の赤字を出し、
山本条太郎常務の激しいおしかりを受け、次のように言われます。


「自動車の仕事を君がやりたければ独立してやれ。物産も支援する」


梁瀬の父は独立を決意し、梁瀬自動車が誕生します。

大正7、8年ころには第一次世界大戦による特需景気で、拡大。

その後、バス路線の拡大に力を入れるとともに、
京都タクシー、神戸市街自動車など、タクシー会社の経営に乗り出します。

どの事業も「おれの性格に合わん」と言って途中ですべて売却してしまいますが、
事業に対する先見性、発想は素晴らしかったようです。

惜しむらくは継続し拡大する能力に欠けていたということ。


しかし、大正9年の大不況にぶつかり、
仕入れた車はほとんど売れず、三井物産から手形の決済を迫られ、
父は完全にノイローゼ状態だったとのことです。



梁瀬は大正12年4月、麹町小学校に入学しますが、
自分の足で通えず、人力車でじいやと通学します。

5月に経営不振で頭を抱えていた父は、
苦しさから一挙に逃げ出そうとして、
母を連れてヨーロッパ経由で米国へ旅立ちます。

そして9月に関東大震災が発生、
生きながらえた梁瀬たちは、父の郷里の豊岡村に避難したのでした。


豊岡村での生活は梁瀬に幸いします。

半年の間、田舎の子供と一緒に畑の中を歩き回り、
小川でふなを釣ったりして、駆け足ができるほど元気になりました。

大正13年帰京し、梁瀬は特別編入で慶應義塾幼稚舎に入学します。



欧米に逃亡した父ですが運の強い人でした。

米国に渡る大西洋の船の上で地震を知り、急きょ研究、結局、


大きな災害の時は、物が動くより先に人が動くものである


ということを知り、
トラックの輸入を控え、思い切って乗用車だけを輸入することを決めました。

ニューヨークにつくと、ただちにGMの本社を訪れ、
ビュイックとシボレーの乗用車を二千台注文。

GMでは「ミスターヤナセはかわいそうに大地震で気が動転しておかしくなってしまったのだろう」とまともに取り合ってくれませんでした。

三井物産も猛反対。
山本常務からも「乗用車の輸入はするな。トラックなら賛成する」との電報まで届きますが、
梁瀬の父は乗用車を注文、第一船に自ら乗って帰国します。
大正12年12月のことでした。

このとき発注した乗用車は、
船が横浜に到着する前に全部プレミアムがついて売り切れ。
在庫の自動車も全部はけ、破産寸前であった会社は、一挙に立ち直ってしまったのでした。



震災で悲嘆にくれる人もいれば、
震災をきっかけに立ち上がろうとする人もいたわけですね。

いつの時代も変わらないものがあるのではないかと感じます。



続きはまた来週に。




私の履歴書─昭和の経営者群像〈8〉



昭和の高度経済成長を築きあげた経営者たちの私の履歴書。
過去の記事はこちらからどうぞ。




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