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【引用ここから】
─政治家として起ちあがったころの話を聞かせてください
「小さいときから政治家になろうと思っていた。
11年間会社員をしていてね。34歳で岡山に行ったんだ。
幕末の頃に先祖が岡山に住んでいてね。
だから岡山で出ようと。
でも岡山には知り合いもなく地盤も何もなかったんだね。
僕が保守系で出ると言っても自民党は公認をくれなかったし、党員にもしてくれない」
「いちばん迂闊だったのは地元に友達がいなかったこと。
実は選挙では竹馬の友といえる友人がとても大事だった。
あいつがやるなら応援してやろうと。
だから歩くしかなかった。
親父はサラリーマンだからお金もないし。
当時はがきが30円だったので、一日200件歩いて、その人にはがきを書いてね。
下手だったけど筆で書いてね。
印象が残っているうちにすぐに出そうと、
その日のうちに200枚ぐらい書くことを毎日していたね。
今でも、昔はがきをくれたなあ、と言ってくれる人もいるよ」
「ある人の紹介で、岡山で大きな会社だった天満屋の社長に会った。
平沼赳夫を下見する会を天満屋の社長が開催してくれてね。
30人集まってくれたんだけど、憲法改正など政治信条を演説したんだが、
みんなこれでは駄目だろうというんだね。
憲法改正はその当時タブー視されていたんだね」
「その後、会に参加してくれた一人一人を訪ねて、
膝詰めで信念を話してね。
今でもその当時の人たちが言うんだけど、
憲法改正しか言わないから、これは駄目だと思ったけど、
とにかく真剣で一途な思いに打たれたんだろうなあと言ってくれるんだ」
「最初の選挙の時には65000票必要なところ、
17080票しか取れなかった。9人中9位。
最下位で落選したんだ。
自民党も公認してくれないし、
そんな少ししか票が取れないなら「やめろやめろ」とみんな言うんだ。
でもね、竹馬の友もいない、
地盤も看板も何にもない自分がよく17080票も取れたと思って、
これは頑張ってやろうと思ったね」
「2回目の選挙の時には中川一郎さんと縁が出来てね。
僕の政治信条などを理解してくれてね。
自民党の公認ももらえて。石原慎太郎さんなんかも応援に来てくれてね。
票は3倍近く伸びたんだけど、また落選したんだね。
通常選挙というのは平均して3年に一回ぐらいなんだ。
また3年頑張ろうと思っていたら、わずか7ヶ月でハプニング解散というのがあってね。
嬉しかったね。
そして3回目の選挙に出たんだ。
同情票なんかもあったと思うが三度目の正直でトップ当選した。
34歳でサラリーマンをやめて41歳で初当選。6年半かかったね」
「今思うと、チャレンジしたことが非常に良かった。
あんなやつ駄目だとか、もうやめろと何度も言われたけど。
キリストも『たたけよ、さらば開かれん』と。
扉をたたかないと内側から開けてくれないわけですね。
僕は扉をたたき続けたんだね。
とにかくたたき続けなければ。
そして『求めよ、さらば与えられん』
ベンチャー起業家も、たたき続けること、求め続けること。
あきらないないことが大事だね。『扉をたたき続けろ』だね」
【引用ここまで】
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私もまた、
「やめろやめろ」と今でも言われます。
起業もいろんな人に反対され、
選挙に出るのも反対され、
維新塾に大阪へ行くこともいろいろな人に反対されています。
それでもやはり、平沼さんと同じように、
扉をたたき続けてみたいと思います。
たたき続けることしか自分には出来ないのではないかとも思っています。
あの平沼さんでも、
最初は大変だったのかと思うと、
まだまだたくさんの扉をたたき続ける必要があるなと
あらためて思います。
みなさんはどんな扉をたたきますか?
Vol.10 『扉をたたき続けろ!』平沼赳夫 元経産大臣インタビュー(ドリームゲート)
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