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橘学苑をつくった母と、度重なる浪人の経験─土光敏夫(臨調会長)その2─昭和時代の私の履歴書

昭和の偉人たちが何を考え、失敗にどう対処し、
それをいかに乗り越え、どんな成功を収めたのか、

日本経済新聞に掲載されている、
自伝コラム「私の履歴書」から
探ってみたいと思います。


私の履歴書─昭和の経営者群像〈8〉


土光敏夫のお話の続きです。

冒頭の履歴書は、行財政改革の話でした。
その後履歴書本編に入ります。


明治29年9月15日、土光は
岡山県御津郡大野村大字北長瀬字辻(現在は岡山市大野辻)に生まれます。

中の下くらいの農家で、両親は三男三女をもうけます。
長男は一歳で病死したため、土光が実際上の長男になります。

土光家は世間では村上水軍の末裔ではないかと言われていたようですが、
実際は代々農家でした。

本家は大変な土地持ちだったとのことです。


父は生来、頑健な体ではなかったので、
のちに田畑は人に貸し、米穀類、イ草、肥料などを商う
小売卸のようなことをやっていました。


明治36年、土光は大野村立大野尋常小学校に入学します。
学校は家から2キロ離れた小山のふもとにありました。

生活はのんびりしており、田畑を駆け巡る生活でした。

そして土光は、
そうしたのんびりした生活をしながら、

県下一競争率の高い県立岡山中学を受け、
見事失敗してしまいます。


当時の岡山中学は、約十倍の競争率。

そこでやむなく尋常高等科に進み、
一年、二年と合計三回受験しますが、
これまた全部失敗してしまいます。



このメルマガでは何回も書いていますので、
昔からの読者の方には耳にタコで恐縮ですが、
私の履歴書に出てくる人物から、
「成功の三要素」を私は感じています。

この私の履歴書に出てくる人物は、
高度経済成長を支えたそうそうたる財界の重鎮が多いのですが、

その人生をすべて見てみると、


「放蕩(浪人)」

「大病」

「投獄」



この3つはほとんどの人物が経験しています。
3つすべてを経験している人の人生は、
読んでいてすごい人生だと感心するぐらいです。


逆にいうと、
この3要素を人生で経験すると、
大きな成功が待っているといえるのではないでしょうか。

もちろんそこからみんな
相当の努力をしているわけですが、

この3つは人生において重要なポイントだと感じています。



ということで、土光は、
人生の早い段階で、


「浪人」


しかも3回連続で失敗するという経験をしています。

文面から見ると、
本人はさほど気にしていないようですが。



土光は、小学校を卒業するころから、
父の商売の手伝いをします。

頼まれれば岡山まで肥とりに行き、
肩に綱をかけてひきながら徒歩で往復二時間。

その間手は空いているので、
往復に本を読んだりもしていました。

この家業の手伝いで、
足腰が強くなり、腕力もつきます。



三度の失敗で、ついに県立はあきらめ、
私立の関西中学へ入ります。

ここで土光は級長や副級長をつとめ、
二番目の成績で卒業します。

このころから向学心に目覚め、
本気で勉強をするようになります。

うちに余裕はなかったので、
はやく社会へ出ることができる専門学校、
それも理数が得意なので高等工業を選択します。


当時高等工業でももっとも難しいのは、
東京の蔵前高等工業(現在の東京工大)でした。

土光はあえてこれに挑戦します。

しかし残念ながら見事失敗してしまいます。


そこで郷里へ帰り、大野村で小学校の代用教員をつとめながら一年間、
受験勉強に励みます。

幸い二度目は合格し、しかもトップでの合格でした。




土光は関西中学時代を振り返り、
校長の山内佐太郎という偉大な人格に出会ったと記しています。

山内は、日本書紀神代紀の「天壌無窮」を掲げ、
徹底した精神主義の教育を行いました。

そのめざすところは、

国士魂とデモクラシーとの調和

でした。

大正初めのころのことです。


毎日の朝礼会や修身の時間に繰り返し以下の六項目を
山内校長は述べたそうです。



第一、至誠を本とすべし。至誠こそは精神の統治者である。
   誠実であること、潔白であることを中心とせよ。

第二、勤労を主とすべし。
   「勤労を怠らないならば、念仏を唱えずとも、お祈りを行わずとも、神明と交り、仏陀の慈悲に浴す」
   という二宮尊徳と同じ思想に基づいたものである。

第三、徳操を体とすべし。
   徳操を身につけるには、意志の強固と心情の高潔とを必要条件とする。

第四、智能を用とすべし。

第五、報国を期すべし。

第六、国士魂を養うべし。



山内校長は、地方講演によく出かけ、
地域社会の文化発展に意をそそがれます。

そして、なになにらしく、
つまり人は人らしく、
男は男らしくということを強調されたのでした。


人生において、偉大な師に若いころに出会えるというのは、
ありがたいことですね。

その後の人生の礎を先生が作ってくれるものです。



また土光の両親は信仰の篤い人でした。
岡山一帯は「備前法華」といって、
昔から日蓮宗の信仰厚いところでありました。

土光も物心ついてから、
父母と一緒に、必ず法華経を唱えさせられます。



父、菊次郎は、どちらかというと絶対的信仰。

長女が、結婚し、33歳で胸を患い生死をさまよった時には、
一切の楽しみを断つ願をかけます。

そして婚家先の宗教は真言宗にもかかわらず、
特別に許しを得て、
法華経を一心不乱に唱えた人でした。

平常の生活も、
病気は心の不始末からくるものとして、
医者にかかったり、薬を飲んだりするのをきらい、
それより信心第一と考えていた人でした。

父は他人を信ずるのも絶対で、
人からも信用されたのでした。

村人から「ホトケの菊次郎さん」と言われていたのだそうです。



母、登美の信仰は、
父に勝るとも劣らない深さではありましたが、

父よりは理性的。


一番上の子を一歳で亡くしてからは、
ほとんど毎日のようにお墓に参り、お経をあげていましたが、

次の子からの子育てには、
胎教を実行したり、進んで科学的育児法を研究したりしました。


先ほども記した、長女の大病のときには、
父とともに毎日読経を続けますが、
父のようにただ祈るだけではなく、

当時日本一といわれた結核の専門医に相談し、
鎌倉・七里ヶ浜の療養所に入院させ、
この難病を克服させたのでした。

現代医学や科学にも絶大な信頼をおいていたのが土光の母でした。

この母は、のちに七十歳にして、私立の学校を設立、
学校経営に乗り出しますが、

いったんこれと決めたならば、
それを必ずやり通す強い意志を持っていたのでした。


土光の母は新しい思想にも敏感で、
赤ん坊にお乳を含ませながら、
『日本および日本人』を読んでいたそうです。

年をとっても、
「改造」「中央公論」などを好んで読んでいたというので、
当時はなかなか珍しい女性だったといえるでしょう。


昭和14、5年になると、
土光の母は女学校の経営を思い始めます。

当時は日華事変がますます拡大、
世は全く戦時色一色でした。

そうした世相に危機感を覚えたのでしょう、


「国の滅びるは悪によらずしてその愚による」


ということを言いだしていました。

したがって、国を救うには、
愚に走らせないような国民作りが必要で、
そのためにはしっかりした女子を育てなければならない
と考えていたようです。

昭和15年土光の父が亡くなり、
母はこの身を投げ捨てて何か世のためになることをしたい、
その思いが募っていました。

昭和16年9月、父の一周忌。
家族の前で、母ははっきりと

「学校を建てたい」

と意思表示します。そのとき母は70歳。

家族は全員反対します。しかし、

「私の身体のことを考えていうのなら、
 私の生命はささげているのだから」

と母は押し切ったのでした。

母は隠居所のつもりで横浜市鶴見区北寺尾に
家を建てすんでいました。

土光は当時石川島タービン技術部長、
兄弟もみな母の念願実現に手助けする余裕はありませんでした。



しかし土光の母は独力で歩き始めます。

資金集め。

「もし私が亡くなってから香典を下さるおつもりならば、
 生きているうちにください」と。

芳名録をつくり知人の家を訪ねます。
快く出してくれる方もあれば、けんもほろろの方もある。


土地は地主さんや農地を借りている方にお願いして回ります。
出来るだけ広くと、26人と交渉、
一万坪を手に入れます。

地主が承諾しても、借地人が承知しなければ成立しないので、
農家が起きるころに外で待って交渉します。

相手がもし、一回でダメなら、
承知するまで何度でも通います。

最後はほとんどの人が根負けしたようです。


──────────────────────────────
【引用ここから】


ある一人の地主が、母の死後語ってくれた。

「七十の年寄りが、ここに学校を建てるから協力してくれといって来た。
 はじめのうちは正気かどうか疑った。

 だが、あまりの熱心さにだんだん信用するようになった。

 ところが、交渉が成立すると、
 農地を借りている人に気前よく言い値の離作料を払うものだから、
 こんどはなにか別に魂胆を持った人間ではないかと
 疑い始めた。

 しかし、これも、私たち地主との交渉では地代を値切りまくる。
 へんな話だが、値切られて、やっとこの話はほんものだと安心した」

そうだ。


【引用ここまで】
──────────────────────────────


学校は昭和17年4月1日に発足します。

各種学校四年制の「橘女学校」です。

戦後は学校法人「橘学苑」として、
中等部、高等部を擁しました。

名前は、日蓮上人の紋章がたちばなであり、
その土地が昔、神奈川県橘郡旭村と呼ばれていたことによるものでした。


そして平成の現在もこの学校は横浜市鶴見区にあります。



橘学苑中学校・高等学校



土光敏夫は、母の死後、
理事長になっていますね。


橘女学校の創立のことばは、

1、心すなおに真実を求めよう

2、生命の貴さを自覚し、明日の社会を築くよろこびを人々とともにしよう

3、正しく強く生きよう


というものでした。


初代校長は、加藤文輝師。
日蓮上人のご遺文録を編纂された加藤文雄師の令息で、
土光の母は信仰の関係で先生と知り合い、
ぜひにと懇望したのでした。

昭和19年4月、土光の母、登美は、
73歳で亡くなります。


起業の精神という意味でも参考になりますね。

70歳から学校をつくりたいと一念発起し、
3年間で基礎を作り上げその生涯を終えましたが、

平成の今にも受け継がれるような学校をつくった、
その土光登美の行動力が、
土光敏夫に大きな影響を与えずにはおれないでしょう。


土光敏夫は、
父と母から大きな影響を受けたようです。


来週に続けます。





私の履歴書─昭和の経営者群像〈8〉



昭和の高度経済成長を築きあげた経営者たちの
私の履歴書。過去の記事はこちらからどうぞ。

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