祝日法の趣旨によれば、
「激動の日々を経て、復興を遂げた昭和の時代を顧み、
国の将来に思いをいたす」
日とされています。
昭和天皇(しょうわてんのう、1901年4月29日 - 1989年1月7日)は、
日本の第124代天皇(在位:1926年12月25日 - 1989年1月7日)。
諱は裕仁(ひろひと)。
幼少時の称号は迪宮(みちのみや)、お印は若竹(わかたけ)。
時代を考えてみると、
昭和時代の私の履歴書に出てくる人物とほぼ同世代で、
当たり前と言えば当たり前ですが、
明治時代に生まれ、
20代で関東大震災を経験し、
40代で終戦、
そこから高度経済成長を経て、
昭和64年1月7日におかくれになるわけです。
昭和という時代を象徴する方でもあるわけで、
そのエピソードなどは枚挙にいとまがありません。
ウィキペディアなどを読むと、
そのエピソードが事実かどうかはともかくとして、
お言葉や行動に、
あらためて敬意を持つと同時に、
ときにユーモアに富んだやさしい一面も垣間見え、
おもしろいですね。
しかし、
戦後間もなくGHQが進駐し、
敗戦処理をいかにするかという段になり、
昭和天皇はGHQのマッカーサーのもとへ
行くことになります。
その時のエピソードは、
緊迫する内容です。
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【引用ここから】
実際マッカーサー自身が、のちに回顧録の中で次のように書いたのである。
「天皇の話はこうだった。
『私は、戦争を遂行するにあたって日本国民が政治、軍事両面で行なったすべての決定と行動に対して、
責任を負うべき唯一人の者です。
あなたが代表する連合国の裁定に、私自身を委ねるためにここに来ました』
──大きな感動が私をゆさぶった。
死をともなう責任、それも私の知る限り、明らかに天皇に帰すべきでない責任を、
進んで引き受けようとする態度に私は激しい感動をおぼえた。
私は、すぐ前にいる天皇が、一人の人間としても日本で最高の紳士であると思った」
(マッカーサー回顧録一九六三年)
天皇とマッカーサーの会見は、はじめ一五分の予定だった。
しかし、マッカーサーは天皇の態度に深い感銘を受け、会見は三五分にも及んだのである。
会見がなされると、その会見の要旨は後ほど通訳の手で文書にまとめられ、侍従長に渡される習慣になっていた。
会見の翌日、藤田侍従長は、会見における天皇の発言の要旨を文書にまとめたものを、通訳から受け取った。
藤田氏は、いつものようにそれに目を通したうえで、天皇のもとに提出した。
藤田氏はこのとき、メモをとらなかった。
しかし彼はのちに、その内容について二つの点をはっきり憶えていると言って、
次のように著書の中に書いている。
「…陛下は、次の意味のことをマッカーサー元帥に伝えられている。
『敗戦に至った戦争の、いろいろな責任が追求されているが、責任はすべて私にある。
文武百官は、私の任命する所だから、彼らには責任がない。
私の一身はどうなろうと構わない。私はあなたにお委せする。
この上は、どうか国民が生活に困らぬよう、連合国の援助をお願いしたい』
一身を捨てて国民に殉ずるお覚悟を披瀝になると、この天真の流露は、マッカーサー元帥を強く感動させたようだ。
『かつて、戦い破れた国の元首で、このような言葉を述べられたことは、世界の歴史にも前例のないことと思う。
私は陛下に感謝申したい。占領軍の進駐が事なく終わったのも、日本軍の復員が順調に進行しているのも、これすべて陛下のお力添えである。
これからの占領政策の遂行にも、陛下のお力を乞わなければならぬことは多い。どうか、よろしくお願い致したい』」
とマッカーサーは言った(藤田尚徳『侍従長の回想』昭和三六年)。
【引用ここまで】
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確かに戦争には負けましたが、
この昭和天皇の態度こそ、日本人としてあるべき態度の象徴のように思います。
自分の身がいかになるかわからない時でも、
このような態度をとること、
自分の話ではなく、
国民全体の衣食住をまず考えること、
4月29日は、
いろいろなことを考えさせられる日です。
【参考】
「昭和の日」記念・昭和天皇の知られざる実像・マッカーサーを感動させた言葉
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