研究費を支出してくれる、
日本共商の社長、野口喜一郎氏が熱心な仏教徒であり、
事務所にしばしば僧侶を招いて説教を聞かされることがありました。
加藤は学生時代、一回金子大栄師の話を聞きましたが、
仏教を学ぼうというところまでではありませんでした。
四方合名に入社してからも、
松本雪城師の講話も拝聴するものの、
仏教には親しめず、
市川工場長となってからは、
僧侶に会う機会もなく、
宗教とは縁遠い人間となっていました。
「善人なほもて往生を遂ぐ、いはんや悪人をや」よりも、
「宗教はアヘンなり」にうなずいていました。
しかし、野口社長の熱心なすすめを拒むわけにはいかず、
いやいやながら話を聞きます。
この非常時に説教など聞いて何の役に立つかと腹立たしさを感じたこともありました。
しかし昭和19年の秋、
加藤はある説法に非常に感動したのでした。
「和」の問題。
松原致遠師が、「我」について適切な解説をされ、
それまで、これだけは確かと思っていた「私」なるものがあやしくなってきたのでした。
加藤は、その時はっとしたのでした。
それ以来、会社で開かれる法座には自ら進んで出席し、
例会日が来るのが待ち遠しくなったのでした。
仏教書も読み漁るようになります。
この松原師は、空襲下の交通事故で重傷を負われ、
数日後病院で逝去されます。
この時の松原師は、事故について、
「痛いおしかりを被りました」といわれただけで愚痴は一言も出なかったと。
見舞いの客にはいちいち礼を述べ、
念仏を唱えながら息を引き取られたとのこと。
加藤はこの話を聞き、
いよいよ仏教にひかれていったのでした。
昭和15年の暮れ、
熱心に研究をしていた、イソオクタンのサンプルを
陸軍航空技術研究所に提出し、合格します。
ここから研究員を徐々に増加させていったのでした。
この研究を陸軍航空本部からは、
一日も早く工場生産に移すよう催促を受け、
合同酒精の旭川工場で実現しました。
昭和17年には、
加藤は陸軍航空本部の委嘱でジャワに出張します。
現地でイソオクタンを造ることが可能かどうかの調査でした。
当時は出張も命がけ、
直前に出発した船は敵の潜水艦に撃沈されたのでした。
加藤はジャワで数多くの製糖工場を見て回ります。
パレンバンを経由し、タンカーに乗せてもらい帰国します。
これよりほかに方策がなかったのでした。
日本へ帰ると、陸軍省から、
内地においても年産二万キロリットルのイソオクタン工場を造れとの命を受けます。
直ちに着手し、九州で用地を選定、
東洋紡と話がまとまり、
昭和18年3月、新会社東亜化学興業が成立します。
まずブタノール工場への改装が終わり、
12月から操業を開始します。
しかし昭和19年夏になって、
軍からブタノールもイソオクタンも中止して、
無水アルコールを造れとの命令が下ります。
原料の砂糖の確保がはなはだ不安になったためでした。
加藤たちは急いで、
ブタノール工場を無水アルコール工場に転換し、生産を開始します。
そして昭和20年8月15日。
加藤はこの日を防府工場で迎えます。
天皇のご放送を聞き、さすがに加藤も涙を催したのでした。
終戦直後、会社を存続すべきかどうかについて
協議しましたが、結局存続に決定されました。
しかし仕事の目標は何もなく、
工場内の治安維持がまずめざされました。
倉庫には原料の砂糖がまだ山と積まれていたのでした。
まもなくこの砂糖は、
進駐軍の指令によって直ちに中国五県の住民に分配されます。
原料のすべてを失い、
やむなく従業員全員九月末日をもって一斉退社、
十月一日から改めて仕事に応じ復帰という形をとります。
ここで加藤は前社長野口氏の推薦により、
社長に就任しました。
同時に社名を協和産業と改めたのでした。
たけのこ生活が続きましたが、
何とか原料を手に入れなければと加藤は考えます。
ここでふと、ジャワでの出張時に、
川に糖蜜を流して捨てていた光景を見たことを思い出します。
加藤は商工省に出向き、
糖蜜を輸入してブタノールを造らせてほしいと願い出ました。
商工省は、GHQへ行けと。
GHQの将校は、話を聞き納得しますが、
時期が早いと。
根本方針が決まらなければ、細目が決まらないと。
それから二年がたち、昭和23年、
ゴーサインが出たのでした。
8月に、待望の糖蜜を積んだ第一船が防府工場へ入ったのでした。
さっそく、ブタノール・アセトンの製造を開始しました。
昭和23年秋には、協和産業はアルコールとブタノール・アセトンと
二種の基本的な発酵工業を営むようになっていました。
そのころ公正取引委員会ができ、
独占を許さないという方針から、
独立の方針が出されます。
昭和24年7月1日、協和産業の第二会社として、
協和発酵工業が生まれ出ました。
加藤は昭和25年アメリカに行き、
メルク社とストレプトマイシン製造に関する契約を結びます。
これにより、
日本の結核患者には大きな福音をもたらします。
それまでの日本人の死亡率は結核によるものがいつも最高でしたが、
それが一挙に第六位に下がったのでした。
ブタノール・アセトンも順調に進展、
のちに石油化学に代わるまで日本の65%のシェアを占めていました。
アルコールも生産開始後、急速に需要が増加し、
毎年倍増していきます。
資金集めにも奔走し、
昭和24年8月、東京株式取引所に上場されました。
加藤は昭和25年のアメリカ旅行中に、
交通事故にあいます。
乗っていた急行列車が大型トラックと衝突して
脱線転覆したのでした。
幸い微傷で済み、無事帰国しましたが、
この経験をきっかけにNHKの取材を受け、
在家仏教会にひっぱりだされることになります。
昭和27年7月20日、
在家仏教会の結成式が行われ、加藤は会長に就任します。
会長就任時、加藤は会の方向を明らかにしました。
1、この会は仏教を聞く会であって、釈尊以外の教祖を認める新興宗派ではない。
2、会員は、在来の仏教宗派のいずれに所属していようと自由である。
3、この会は、葬式、法要等仏事を営むものではない。
4、この会は、寺院と僧侶を誹謗することなく、僧俗一体となって仏教の普及に努力する。
この協会は創立以来、
「在家仏教」という月刊誌を発行したのでした。
昭和31年、協和発酵は、
醗酵法でグルタミン酸を製造、
醗酵工業に新しい分野を開く序幕となります。
グルタミン酸はアミノ酸の一種で、
味の素の主成分です。
その後加藤は、
日本合成ゴム、
協和ガス化学、
日本合成アルコール、それぞれの会社の創立に参画します。
それぞれの専門の分野での草分けとなった会社です。
政府の科学技術会議議員、
通産省の軽工業生産技術審議会会長なども歴任します。
技術者として、経営者として、
大きな業績を上げてきた加藤でしたが、
学生時代からであった仏教の教えが、
その人生を支えてきたのではないかと
履歴書を読みながら感じました。
最後の文章を引用します。
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【引用ここから】
さきにもいったように、
私は、学生時代むやみに死を怖れ、そして生の空しさを感じた。
今にして思えば、
それはノイローゼに過ぎなかった。
よくよく考えてみれば、
「私のいのち」と限定できるものはもともとないのである。
現に私は、時々刻々生滅しているではないか。
しかも、私を生滅させつつあるものは不生不滅なのだ。
なんのことはない、
私は最初から如来のいのちの中にあったのである。
また私は、この履歴書でわかるように、
骨の髄から煩悩のかたまりである。
欲望に限りがなく、些細なことにもはらを立て、
おかげさまを忘れて自分の行為には高い値をつけようとする。
あさましいとは思うが、どうしてもそこからぬけ出られない。
しかし、不思議にもこのどうしてもぬけ出られないと思い定めたとき、
私の耳の底に、
「ただ念仏」
のささやきが聞こえたのである。
爾来、念仏が私の進む唯一の道となった。
今日の私は、念仏の中に、
与えられた仕事を楽しく遂行させていただくばかりである。
【引用ここまで】
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私の履歴書─昭和の経営者群像〈7〉昭和の高度経済成長を築きあげた経営者たちの
私の履歴書。過去の記事はこちらからどうぞ。
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