加藤辨三郎(協和発酵工業会長)その1─昭和時代の私の履歴書
昭和の偉人たちが何を考え、失敗にどう対処し、
それをいかに乗り越え、どんな成功を収めたのか、
日本経済新聞に掲載されている、
自伝コラム「私の履歴書」から
探ってみたいと思います。
私の履歴書─昭和の経営者群像〈7〉加藤 辨三郎(かとう べんざぶろう、明治32年(1899年)8月10日 - 昭和58年(1983年)8月15日)は
日本の実業家。
協和発酵工業(現・協和発酵キリン)会長。従三位勲一等工学博士。
島根県簸川郡荒茅村(現出雲市)に加藤伊三郎の長男として生まれた。
生家は代々清酒醸造業を営んでいたが祖父の代に没落。
父は村役場の書記をしていた。
京都帝国大学工学部卒業。四方合名会社(現宝ホールディングス)入社。
1949年協和発酵工業株式会社取締役社長に就任。1968年同社取締役会長に就任。
1952年在家仏教協会を設立。
明治32年島根県生れ。
大正12年京大工学部卒、宝酒造の前身四方合名に入社。
昭和12年協和会へ転出、
20年協和産業社長、24年協和発酵工業社長、
44年同社会長。
27年在家仏教会会長に就任。
58年8月15日死去。
清酒「松竹梅」、
タカラCanチューハイ、
寶焼酎、
タカラ本みりん、
などなど、宝酒造の商品は有名ですが、
協和発酵工業という会社は、
現在協和発酵キリンとなっており、
医薬品、化学品、総合バイオメーカーです。
現在キリンホールディングスの子会社で、
キリンビールグループに属する会社ですね。
この協和発酵工業の初代社長が、
加藤でした。
加藤は明治32年、
島根県簸川郡荒茅村(出雲市)に生まれます。
戸籍上は8月10日生まれとなっていますが、
実際は4月27日でした。
加藤は中学に入ってからそれを知り、
父親になぜそんなことをしたのか尋ねます。
すると父は、
「皇太子殿下(のちの大正天皇)と同じ月にしたのさ」
と答えます。
「それならいっそ31日(殿下のご誕生日)にしたらよかったではありませんか。」
「それはあまりに恐れ多い」
しかし後に加藤は、
父がそういう考えではなく、
じつは、自分が無事に成長するかどうかを
たしかめたうえで出生届をしたのだ
と気が付くのでした。
加藤の母は、
体質からか過労のためか、
乳が十分に出なかったのだそうです。
加藤は近所の主婦の乳で育ちます。
そして加藤が十歳のころ、弟が生まれました。
しかし、加藤の父は最初から、
この子は弱いと心配そうに言っていました。
名づけ日が来ても、父は名をつけようとはしませんでした。
そして間もなく、弟は亡くなったのでした。
そのときはじめて父は、
「名をつけてはいっそう悲しいからな」
と言ったのでした。
そのような心配を、
加藤の場合にも父はしたにちがいありません。
ずっとのちになって、
加藤も親の心がわかってきたと言っています。
現在の日本ではあまり見られないことですが、
このころは栄養も不十分で、
赤ん坊が無事に育つかどうか、
また母親の産後もうまくいくかどうか、
非常に大変だったようですね。
無事に子供たちが生まれ育っていくということは、
本来なかなかないことだということをありがたく思います。
加藤家は、代々清酒醸造業を営んでいましたが、
父が幼いころから家業は傾き、
父は8歳の時に母の実家に預けられ、
12歳の時に叔母の嫁ぎ先に移ったのでした。
父は村役場の書記をし、
19歳の時に雑貨としょうゆを売る
小売商を始めたのでした。
加藤の母は実によく働く人で、
朝は未明に起き、
夜は十一時より早く休むことのない人でした。
こどもごころに母は働きすぎではないかと
加藤は感じていたのだそうです。
流産したり、生まれた子がすぐ亡くなったりして、
無事に育ったのは加藤と妹の二人だけでした。
そして母は大正2年、
加藤が中2の時に35歳で亡くなってしまいました。
このとき加藤は、
「生涯最大の悲しみ」であったと書いています。
客の顔を見るたびに泣いたと。
当分の間、毎日墓に参らずにはいられなかったそうです。
参ればひとまず気が落ち着く。
母の死は、加藤にとってそれぐらいの悲しみだったようです。
そして、加藤は尋常小学校に入学しますが、
「品行方正学術優等」の賞状をもらうような子供でした。
腕力はなく意気地なしであったと回想しています。
このころからしょうゆ醸造の手伝いをしたりしたのでした。
6年生になった時、
父から中学へ入るようすすめられます。
加藤はそれまで中学へ入れてもらえるとは
思っていなかったので、
非常にうれしく感じます。
父は加藤に師範学校へ行って先生になれとすすめたのでした。
明治45年4月、
加藤は島根県立杵築中学校(現大社高校)に入学します。
幸いに加藤の家から学校が近く、
4キロしか離れていなかったので、
徒歩で通学します。
このころの通学は、
いまに比べると大変距離があるように感じます。
いろんな人の履歴書をみると、
通学距離が現代から見てべらぼうです。
しかし、そのおかげで、
通学が体力増進になっている人が多いようにも感じますね。
加藤は体も貧弱で、
年も下だったので、
自分は落第すると本気で心配し、
かえってよく勉強しました。
上位に位置する成績でした。
このころの加藤の印象に残っている事件について
書かれているのですが、
明治45年7月30日、
明治天皇崩御について書かれています。
崩御の少し前から田舎の新聞にも毎日ご容体が発表されていました。
村々では競うように神社にお百度参りが行われます。
崩御された後、歌舞音曲は直ちに禁止され、
年号が大正に変わります。
私としては、
昭和天皇崩御を思い出しますね。
時代は違えど、同じような雰囲気ですね。
加藤が驚いたのは、
その年9月の御大葬よりも、
乃木大将夫妻の殉死でした。
加藤はえらいなと思います。
特に、夫人がよくもいっしょに死ねたものだと感じます。
その半面なにやら時代に合わないものを感じてもいたようです。
中学5年のある日、加藤は母の弟である立花章一(のち陸軍中将)から、
これからは大学へ行かなければだめだと言われます。
金なんかないというと、
金はどうにでもなるものだと。
入学さえすれば必ず何とかなるものだと。
これを受けて教頭先生に相談してみたところ、
たしかにそうだと、高等学校を受けてみるよう勧められます。
「もし入ったら学資については、
私が誰かに頼んでみてもいい」
とまで教頭先生は言ってくださったのでした。
そして加藤は、
京都の第三高校に合格したのでした。
先輩がしきりに京都のよさを吹聴したのと、
汽車賃が東京への半分で済むためという理由で、
京都を選んだのでした。
三高の生活は何もかも珍しいことばかり。
寮の同室八人は、全国各地からやってきました。
単に秀才であるばかりでなく、個性もはっきりする連中でした。
いかにも自由多彩。
旧制高校のありがたさを感じたそうです。
そして高校時代加藤は読書に励んだようです。
『貧乏物語』
『共産党宣言』
漱石、ゲーテ、トルストイ、ユーゴ、
『出家とその弟子』
『歎異抄』
などなど。
そして大正9年に、京都帝国大学工学部工業化学科に入学しました。
このころに加藤は、
突如高熱を発し、病臥します。
その病名は、
当時の難病である
チフスでした。
このお話の続きは来週に。
私の履歴書─昭和の経営者群像〈7〉昭和の高度経済成長を築きあげた経営者たちの
私の履歴書。過去の記事はこちらからどうぞ。
- 関連記事
-
コメント