45歳で妻に先立たれた話と南氷洋捕鯨におけるリーダーのあり方─中部謙吉(大洋漁業社長)その2─昭和時代の私の履歴書 - つくる!宮城県議会議員渡辺勝幸のブログ【仙台市若林区】
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渡辺勝幸について

【現職】
宮城県議会議員【仙台市若林区選出】
 宮城県議会 環境福祉委員会 委員長。
 宮城県議会 不登校・ひきこもり対策調査特別委員会委員。
 宮城県議会 政務活動費運用検討会議座長。

自由民主党・県民会議
 事務局長。
 環境・エネルギー議員連盟 事務局長。
 芸術文化議員連盟 副幹事長。
 防衛議員連盟 幹事長。
 防災議員連盟 事務局長。
 日越交流宮城県議会議員連盟 幹事長代理。
 みやぎの印刷産業振興を考える議員連盟 事務局長。
 宮城オルレ・トレイル推進議員連盟 事務局長。
 宮城県議会行政書士議員連盟 事務局長。
日韓親善宮城県議会議員連盟 事務局次長。
宮城県スポーツ議員連盟 幹事。
  宮城県議会国際リニアコライダーの誘致議員連盟 副幹事長。
宮城県議会全国和牛能力共進会宮城大会を支援する議員連盟 幹事長。
北朝鮮に拉致された日本人を救出し支援する宮城県議の会 事務局長。
神道政治連盟宮城県本部議員連絡協議会 幹事。
岩手県議会・宮城県議会国際リニアコライダー建設実現議員連盟 理事。

自由民主党青年局 中央常任委員(東北ブロック)。
自由民主党宮城県支部連合会
 青年局長。
 県民運動本部 副本部長。
 憲法改正推進本部 事務局長。
 女性活躍推進本部 副本部長。

仙石線整備促進期成同盟会 顧問。
全日本不動産政治連盟宮城県本部 顧問。
宮城県理容生活衛生同業組合 仙台若林支部 顧問。
宮城県私立幼稚園PTA連合会 副会長。
宮城県薬剤師連盟 政策強化委員。
宮城県ドッジボール協会 副会長。
宮城県柔道整復師会 顧問。

宮城県障害者スポーツ協会 常任理事。
宮城県障害者スポーツ指導者協議会 会長。
みやぎパラボウリング協会 会長。
仙台市南地区交通安全協会六郷支部 顧問。
社会福祉法人ウェル千寿会 評議員。

東北大学大学院情報科学研究科 非常勤講師(情報技術経営論)。
起業集団「株式会社つくる仙台」 代表取締役。
ミラサポ(中小企業庁委託中小企業支援事業)専門家。
仙台東倫理法人会 監査。

仙台市立沖野中学校父母教師会 会長。
 若林区PTA連合会理事。
 若林区まちづくり協議会会員。
 沖野中学校区青少年健全育成連絡協議会会長。沖野中学校区災害対策委員会委員。
 仙台市地域ぐるみ生活指導連絡協議会幹事。
沖野東学区民体育振興会顧問。
沖野東小おやじの会沖父ちゃん会顧問。
仙台沖野ソフトボールリーグ顧問。

仙台市南地区交通指導隊六郷分隊 隊員。







【経歴】 昭和50年5月10日生まれ。宮城県仙台市若林区出身。44歳。

昭和57年 沖野幼稚園(仙台市若林区)卒園
昭和63年 青森市立筒井小学校卒業
平成3年 仙台市立沖野中学校卒業
平成 6年 宮城県仙台第一高等学校卒業(高46回。二年間応援団長を務める)
平成11年 慶應義塾大学法学部政治学科卒業
     国会議員政策担当秘書資格試験合格

平成12年 参議院議員市川一朗(宮城県選挙区)政策担当秘書
平成13年 慶應義塾大学大学院法学研究科政治学専攻修士課程修了
平成19年 参議院自民党秘書会幹事(平成22年まで)
平成22年 参議院議員市川一朗政策担当秘書を退職

平成23年 経済産業省後援 起業支援ドリームゲートアドバイザー(平成24年まで)。
     宮城県議会議員選挙(若林選挙区)に無所属で出馬(5,042票で落選)。

平成25年 公益社団法人仙台青年会議所地域共同開発委員会幹事。
     仙台東倫理法人会幹事(青年委員長)。
     沖野東小おやじの会沖父ちゃん会初代会長。
平成26年 東北大学大学院情報科学研究科講師(情報技術経営論・非常勤、現職)。
     公益社団法人仙台青年会議所会員開発委員会委員。公益社団法人日本青年会議所憲法論議推進委員会委員。公益社団法人日本青年会議所東北地区宮城ブロック協議会LOM協働委員会委員。
     仙台市立沖野東小学校父母教師会(PTA)会長(平成31年まで)。
平成27年 宮城県議会議員に初当選(若林選挙区。自民党公認。10,041票でトップ当選)。
     公益社団法人仙台青年会議所総務委員会副委員長。公益社団法人日本青年会議所日本の未来選択委員会委員。
     宮城県議会 経済商工観光委員会委員。宮城県議会 産業振興対策調査特別委員会委員。
平成28年 宮城県議会 議会改革推進会議委員。
宮城県議会 保健福祉委員会委員。宮城県議会 地域防災調査特別委員会委員。
宮城県議会 政務活動費運用検討会議 検討委員。
平成29年 宮城県議会 総務企画委員会 副委員長。
     宮城県議会 いじめ・不登校等調査特別委員会 委員。
平成30年 宮城県議会 スポーツ振興調査特別委員会 副委員長。
     宮城県議会 議会運営委員会 委員。宮城県議会 文教警察委員会 委員。
     宮城県議会 政務活動費運用検討会議 検討委員。
令和元年 宮城県議会議員に再選(若林選挙区。自民党公認。10,273票でトップ当選)。

【渡辺勝幸応援団から、平成30年政治活動についての講評】

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45歳で妻に先立たれた話と南氷洋捕鯨におけるリーダーのあり方─中部謙吉(大洋漁業社長)その2─昭和時代の私の履歴書

2012年02月22日 18:00

昭和の偉人たちが何を考え、失敗にどう対処し、
それをいかに乗り越え、どんな成功を収めたのか、

日本経済新聞に掲載されている、
自伝コラム「私の履歴書」から
探ってみたいと思います。


私の履歴書─昭和の経営者群像〈7〉



中部謙吉のお話の続きです。


中部は船酔いを克服し、
家業として林兼で漁業に取り組みます。

中部の履歴書は当然、
魚の話がメインなのですが、
それ以外のお話もあります。




大正8年、21歳で中部は結婚します。
妻慶子は、16歳、女学校を出たてのほやほやでした。

内気でおく手だった中部は、
近所でも親孝行、将来女道楽などしないだろうという評判でした。

そして父親には、
25か7くらいになるまでは女房をもらいたくないと言っていました。



しかしある日、父が下関から帰ってくると、

「掘り出し物を見つけてきた」

と。


「謙吉、よう聞けよ。こんど実にいい嫁さんが見つかったので決めてきたわい」


「誰の嫁さんで・・・?」


「なにをいうとる、お前の嫁だ」


話を聞くと、その娘は
木梨という友人の娘で、
いま下関の女学校に行っているが、

その娘が町を歩くと両側の人たちが仕事の手を休めて
ポカンと見とれるようなきれいな娘だと。


父親は友人に、

「君の娘さんは美人だし実にいい娘さんだ、
 どうだろう、うちの謙吉の嫁にくれないか」

というと、

「うん、お宅の謙吉さんなら評判もいいし、
 ぜひもらってくれ」

「ところでお嬢さんの方はだいじょうぶかな」

「いや、うちの娘はすなおだから親が言えばだいじょうぶだ」

「うちの謙吉も親孝行だし、さからうことはない」

「では決めてしまおう」



こんなわけで、親同士が固い約束をしてきたのだと。


一応、下関へ行って見合いをしろというので、
気に入らなければ断っていいのかと聞くと、
それはいかん、男と男がいったん約束したんだとそんなやりとり。


現代ではなかなか考えられないお話ですね。




難点がひとつあり、
向こうの方が二寸くらい背が高いということ。

父にその話をすると、
少しぐらい背が違っても気になるのは若い時だけだ。
嫁さんがお前より小さかったら、
子供も小さいのができる、二寸ぐらいの差はがまんしろ、と。



なかなかすごいお父さんですね。



かくして中部は結婚、
実際子どもは体も大きく、
中部より見かけもましだと。



しかし、残念なことに、
昭和16年、中部45歳、妻40歳の時に、

慶子は腸チフスにより亡くなってしまったのでした。


腸チフスで入院した時は、
父親も大いに心配し、
チフスには生きた田螺をすって足の裏に貼るのがよいと聞き、
下関の屋敷にあった300坪くらいの池から、
特別に人を雇って田螺をとったのでした。


中部は子供は6人もあるのに、
最愛の妻をとられ、
チフスという病気を憎みます。

一時は悲嘆にくれて仕事も手につきませんでした。


次第にその気持ちが、
世の中の人がチフスぐらいの病気でこんなひどい目にあってはならぬと
そういう気持ちに変わっていきます。


帝大の長与博士や、慶大の大森博士など、
各大学の専門の先生方にお願いし、
二十万円ほどの基本金を提供し、
チフス研究会というものを作ります。

解剖実験など研究がすすめられました。

その後数年して海外でチフス菌の研究が成功し、
現在では直接菌を殺せるようになりました。



中部にはその後再婚の話も度々起きましたが、
子供のことを考えると、新しい家庭をもつことには踏み切れず。


子供がみんな成長して片付くまでは、ひとり者暮らしがよいと。


子供6人をかかえ、妻に若くして先立たれるというのは、
たいへんなものだと思います。

中部の仕事は順調にいっていたように感じますが、
これは本当につらかったろうなと思いました。




林兼は、昭和の初めになると、
北洋進出を図ります。

まずはカニ工船から始まりました。

しかし小さな会社でもあったので、
政治的に弱く、何度かやっても併合されてしまいます。

カムチャッカのさけ・ます漁場にも進出しますが、
これも吸収されてしまいます。


しかし、カムチャッカ西海岸で
さけ・ますの流し網に成功。

五千トン級の貨物船を輸入し、
大成功を収めます。

北千島の陸上漁場にも流し網漁で進出、
昭和9年には缶詰工場も建設、急成長しますが、
これもまた結局は吸収合併されてしまったのでした。


林兼の北洋漁業は、すっかり台無しになってしまい、
買収金の135万円を手にしたものの、
北洋では手も足も出ないありさまとなったのでした。


そして北洋漁業の道を閉ざされた林兼が、
活路を求めて目を向けたのが、



南氷洋の捕鯨



でした。

捕鯨部の責任者であった志野徳助という人物は、
捕鯨にかけてその右に出る者はない先覚的な人物でした。

名砲手であり、船長であった志野は、
南氷洋捕鯨を提唱、研究もよくしていたのでした。


しかし南氷洋捕鯨には、
母船として二万トン級の船が必要でした。

そんな大きな母船は、まだ日本で作ったことはありませんでした。


興銀、勧銀、安田などの融資を受け、
イギリスの会社ではなく、日本の川崎造船に
建造を依頼したのでした。


川崎造船の吉岡専務は、
海軍中将、覇気のある人で、
相談をもっていくと即座に、

よし造ろう

と。

図面は外国から買い、長い鋼材も輸入していい、
と乗り気。


しかしこれも、
あとから中部が考えてみると、
時局がら日本の海上輸送力を増強しておこうという考えも
あってのことでした。


昭和11年10月7日、
南氷洋捕鯨初出陣の日新丸船団は、神戸を出港します。

船団長は志野徳助。
捕鯨界きってのベテランです。


しかしこの日が彼との最後の別れとなります。

豪州南端の最終寄港地フリーマントルに着くやいなや、
志野は脳出血で急逝したのでした。


「船団長急逝す」

の電報を受け取った中部らもびっくりしますが、
指揮者を失った現場の悲嘆、混迷のほどはいかばかりか。

ひっかえすほかないような電報も受け取ります。


しかし船団に乗っていた中部の弟、利三郎が、
志野が亡くなった跡始末がテキパキしていたので、

中部は父と相談して、
利三郎を船団長にしたのでした。


中部はすぐ現地に電報を打ち、
利三郎を船団長として全員協力して出漁し、
志野君の霊を慰めよと激励。

現場の者は皆了として、
志野の遺体を氷詰めにして船室に納め、
行を共にします。


その年12月から翌年春まで、
南氷洋に活動した日新丸船団は
立派な成績を収めることができたのだそうです。






このことから感じ取れることがあります。

昔私の好きな警察もののテレビドラマで、
主人公が、


「事件は会議室で起きてるんじゃない
 現場で起きてるんだ!」


と叫ぶシーンがありました。


たしかに現場を知ることも大切ですが、
やはりリーダーたるものは、

たとえ自分が現場にいなくとも、
現場にあたかも自分がいるかのように判断をする、

それができなければいけないのではないかと
私は思います。

もちろん多くの人々は、

現場に足も運ばずえらそうに!

ときっと言うことと思いますが、
この想像力があれば、それさえあれば、
たとえ現場にいなくても問題は解決できるのだろうと思います。



この後は、戦況も悪化し、
中部にも困難がやってきます。

つづきはまた来週に。









私の履歴書─昭和の経営者群像〈7〉


昭和の高度経済成長を築きあげた経営者たちの
私の履歴書。過去の記事はこちらからどうぞ。

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