シャープペンシルも発明し、
売上げも激増します。
しかし大正12年9月1日に、
一瞬にして事業を失い、家庭さえも失ってしまったのでした。
人生というのは不条理だということを感じます。
天災というものはあまりにもむごい。
持ち金はどんどん減り、
売掛金回収、返済などあり、
東京で十数年築き上げた早川兄弟商会はついに解散となり、
終止符を打ちました。
シャープペンシルの販売を一任していた日本文具に、
ペンシル事業継続ということで
技術者を雇い入れてもらい、
技術指導責任者として早川は大阪へ行くということになります。
旧従業員たちとともに、
大阪へ行き、一軒借家をして住むことになりました。
日本文具の工場ではみな一生懸命働きます。
早川は技術長として6カ月の契約でしたが、
勤務契約は二カ月延長され、
大正13年8月末をもって日本文具を退職しました。
早川は9月1日に、
大阪市東成郡猿山村字田辺二十五番田に
土地235坪を10年間借用します。坪6銭。
工場住宅37坪のささやかな建物が建築され、
早川金属工業研究所の看板が掲げられました。
旧従業員のうち、川本とほか二人が
どうしても早川のところに行くと。
川本は
「給料は問題にしないからいっしょに行かしてくれ。
こづかいの五円もあればよろしい」
といってくれた。
このとき川本は日本文具から月給77円をもらっていたのでした。
後日、残った全員もぞろぞろとみんな早川のもとにきてしまったのでした。
シャープペンシルの特許はすべて日本文具に譲渡したので作れない。
昔やった万年筆の付属金具やクリップの新型のものを作ったのでした。
事業は月末にはもう利益を上げるにいたり、
年末にはすでに30名に増員していました。
大正14年春、運命はまた早川に幸いします。
前年末、心斎橋の石原時計店に
アメリカから輸入されたラジオ機械が二台だけ着きます。
たまたまそこに居合わせた早川は、
その新着の鉱石ラジオセット一台を
7円50銭で購入して帰ったのでした。
「事業はつねに新しいアイデアで
他より一歩先にと新分野を開拓していかなければ、
とうてい成功は望めない。
私はたまたま買い入れたこの鉱石セットに
異様なまでに関心を寄せた。」
年明けからみんなでセットの分解研究をやり、
4月、自家製小型鉱石セットの組み立てに成功します。
シャープラジオ受信機第一号でした。
早川電機のラジオ製作のさきがけでした。
6月1日、JOBKが大阪三越の仮放送所から
最初の電波を流します。
早川はすかさず市販化します。
おそろしく売れたのでした。
作っても作っても需要に追い付かない状況。
7月には月産一万台となり、
金属工場はラジオ専門になります。
その後昭和10年には資本金30万円の株式会社に改組、
工場敷地は3,042坪、建物962坪、従業員564人となりました。
このころには本格的コンベヤーシステムにより、
ラジオ受信機一台が56秒でつくられるようになります。
第2次大戦に入ると、
早川は海軍の航空無線機を研究に研究を重ね、
大量生産するようになりました。
早川電機工業株式会社と改称、
終戦時には資本金830万円、
従業員4,000人を擁するまでに成長したのでした。
しかし戦後、
ドッジ政策により、
インフレ終息のため徹底的に金融が引き締められ、
たちまち不況の嵐がやってきたのでした。
各業界は不況にあえぎ、倒産して没落するものが後を絶たず。
早川もあらゆる手を打ちます。
売り上げ不振の挽回、売上金回収の向上、
新しい販路の開拓など。
しかし会社借入金が1億1千万円に達し、
昭和25年は会社存亡の秋でした。
夜も眠れぬ日々が続きます。
さらに追い打ちをかけるかのように、
新放送法制定、従来の受信機では聴取困難となるので、
新たにスーパー受信機を備えなければならぬと。
つまり民間放送の実現まで現行受信機は
買い控えるがいいという状況に。
受信機の売れ行きがぱったり止まります。
泣きっ面に蜂。
大詰めの銀行折衝となり、
過剰人員の削減をするならば
銀行はもう一度融資をしようというところまで来ます。
しかし早川には、人員整理をやるくらいなら、
会社が閉ざされる方を選ぶと考えます。
日が流れます。
そのとき、社内の空気が変わり、
従業員側で自主的に希望退職を募って
人員削減に役立てようという動きが起こったのでした。
退職者210名。
融資は再開されたのでした。
その後早川は石橋を叩いて渡る経営に踏み切ります。
そして朝鮮動乱がぼっ発、
経済界はにわかに活発化します。
株価も870円となり、
どん底期の60倍となったのでした。
早川は、以下のように言っています。
「われらの事業の完成は決して単なる個人の野心や
自己満足だけでいいわけはない。
事業の公共性という点から私は事業達成の目標は、
よりよくより高い社会への奉仕と感謝の実行であると
信じたいのである。」
共通価値の概念が、
ここにもあったのではないかと感じます。
最後に早川は次のようにも言っています。
「私の記録は主として若いじぶんを中心にしているために、
そこのところに多くの紙数をとられた感がある。
だからむやみと働いた労苦ばかりが強調されすぎて、
若い人たちにあるいは時代感覚に乏しいと
思われているかもしれない。
しかし私の労苦は宿命のようだった。
時代もちがっていた。
私は自分が過去にやってきたことを
今の人たちに強制しようという気持ちはさらさらない。
ただ労苦に明けくれたころがいまとなってみると
かぎりなく楽しい思い出となっているのである。」
私の履歴書に出てくる名経営者で、
若いころに苦労を重ねた方はこの言葉をよく使います。
苦労したころが年老いると楽しい思い出になるのだと。
とてもいまの私にはそのようには思えないのですが、
もし私が年老いたとき、
あの苦労は楽しい思い出だったなあと言えるときが来るのでしょうか。
私の履歴書─昭和の経営者群像〈7〉昭和の高度経済成長を築きあげた経営者たちの
私の履歴書。過去の記事はこちらからどうぞ。
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