本田は戦後、会社を売り払い、
遊んで暮らしていました。
しかしただ遊んで暮らしていたわけではありません。
まず織物機械をつくってみました。
当時は衣料品が不足していたので、
織機一台を持っていればすばらしい金もうけができました。
疎開工場のバラックを買ってきて、
本田技術研究所を設立します。
しかしさんざん遊んでいたので資金もなく、
とても飯を食う手段にはなりませんでした。
そこで織機をあきらめて考え付いたのが、
モーターバイクでした。
戦争中、軍が使用していた通信機の小型エンジンが付近にごろごろしていたのを
安く買い集め、それを自転車につけて走らせたのでした。
これが大変な評判になります。
交通機関は混乱状態だったころでもあり、
各地の自転車屋さんやヤミ屋が買いにきて飛ぶように売れます。
あまりに売れるので、エンジンも手持ちがなくなります。
こうなったらエンジンまで作ってしまえと
エンジンの製造にとりかかりました。
こうしてできたエンジンが
現在の本田のオートバイエンジンの基礎になりました。
こうしてモーターバイクは当初月産二、三百台だったのが
しまいには一千台ぐらいになります。
当時はガソリン不足のころでしたので、
本田はガソリンに松根油を混合し、
使っているのはガソリンではなく、
統制外の松根油だと主張します。
一部からは悪評も立てられましたが、
「大衆にとってつごうのいいものはやはりつごうがいい」
わけで、全国からたくさんの人がこのバイクを買いにやってきました。
さらに本田は強い馬力のオートバイをつくりたいと考え、
昭和24年「ドリーム号」を完成させます。
そこから本田の躍進が始まるのでした。
本田は、
「当時は五万円の借金にも苦しんだ私だが、
いまでは十億円の借金も容易にできるようになった」
と語っています。
資産ではなく、借金できる能力を誇っているわけです。
この視点はなかなか一般人とはちがうなと思いました。
経営者視点ですね。
そしてこのドリーム号が完成したころに、
藤沢武夫との出会いがありました。
「技術の本田社長、販売の藤沢専務」
といわれ、この二人のコンビは非常に有名ですね。
本田は以下のように語っています。
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【引用ここから】
私は東海精機時代はもちろん、それ以前から
自分と同じ性格の人間とは組まないという信念を持っていた。
自分と同じなら二人は必要ない。
自分一人でじゅうぶんだ。
目的は一つでも、そこへたどりつく方法としては人それぞれの個性、
異なった持ち味をいかしていくのがいい、
だから自分と同じ性格の者とでなくいろいろな性格、能力の人と
いっしょにやっていきたいという考えを一貫して持っている。
【引用ここまで】
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本田は藤沢と一回会っただけで提携を堅く約します。
販売に関してはすばらしい腕の持ち主だと。
「性格の違った人とお付き合いできないようでは
社会人としても値打ちが少ない人間ではないか」本田はこのようにも述べています。
本田は研究を進め、
それまでの二サイクルエンジンに代わって
四サイクルのE型エンジンを作り、これをドリーム号に積載します。
昭和26年7月15日、ひどい嵐の中浜松を出発し、
箱根にかけてテストを行います。
本田と藤沢の乗った自動車(外車)で、
オートバイを追いかけますが早くてとても追いつけず。
ドリーム号はぐんぐん本田たちの自動車を引き離し、
素晴らしいスピードで一気に峠の頂まで突っ走ります。
しかもエンジンは全然過熱していませんでした。
芦ノ湖の見える山頂でそのすばらしさに感激し、
土砂降りの雨の中みんなで涙を流してよろこびあったのでした。
最後に本田はこう述べています。
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【引用ここから】
私はずいぶん無鉄砲な生き方をしてきたが、
私がやった仕事で本当に成功したものは、
全体のわずか1%にすぎないということも言っておきたい。
99%は失敗の連続であった。
そしてその実を結んだ1%の成功が現在の私である。
その失敗の陰に、迷惑をかけた人たちのことを、
私は決して忘却しないだろう。
【引用ここまで】
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私の死んでから受ける評価が、
ほんとうの「私の履歴書」であろう。
こう述べている本田は、
たしかに破天荒な人生を送っていますが、
失敗を恐れなかった人生だったともいえると思います。
失敗すると大変ですが、
失敗に慣れてくると意外と失敗は大変なものではありません。
と思うのは本人だけだったりもするので、
迷惑をかけた人たちのことを忘れない、という本田の姿勢もさすがだなと感じます。
世界のホンダになるぐらいのことを成し遂げるには、
星の数ほどの失敗を重ねなければならないのだろうなと
読みながら思いました。
私の履歴書─昭和の経営者群像〈6〉
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