オムロンをつくった男、立石一真「我々の働きで、我々の生活を向上し、よりよい社会を作りましょう」 - つくる!宮城県議会議員渡辺勝幸のブログ【仙台市若林区】
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オムロンをつくった男、立石一真「我々の働きで、我々の生活を向上し、よりよい社会を作りましょう」

2011年08月11日 18:00

昭和の偉人たちが何を考え、失敗にどう対処し、
それをいかに乗り越え、どんな成功を収めたのか、

日本経済新聞に掲載されている、
自伝コラム「私の履歴書」から
探ってみたいと思います。



私の履歴書─昭和の経営者群像〈5〉



立石一真のお話の続きです。

昭和5年に不況のあおりを受けて、
井上電機を事実上クビになった立石は、

ズボンはさみやナイフ・グラインダーを
売り始めます。

しかし、なかなか売れず、
資本金も食ってしまい、台所が火の車に。



───────────────────────────────
【引用ここから】

どうしたものかと思案投げ首のある日、
ちょうどその日が東寺・弘法さんの縁日・・・

石油箱を四つ持ち込んで脚代わりに並べ、
上に雨戸をおき・・・説明販売を始めた。

・・・それに目をつけた隣の露天商が

『そのネタ、わてに売らしておくなはれ』ときた。

現金取引で明日からでも始めたいというので、私達も渡りに船とOK」


【引用ここまで】
───────────────────────────────


そのうちに市内のあちこちの縁日で顔見知りの露天商もできます。
ちょいちょい陣中見舞いにいくと、

サクラになってくれ

と頼まれます。


説明販売のクライマックスで買い気十分、
すでにふところ手に二十銭握っている客がいるのは
その様子で分かるが、
みんなはにかみ屋で口火を切る客がいないと。

このままだと商機を逸するので、
露天商が“ころはよし”と立石に目で合図。

立石が「面白い。一つくれ」と二十銭を投げ出すと、
とたんに我も我もと手があがる。

販売心理です。



ナイフ・グラインダーは、
大阪、神戸でも契約ができるようになります。

しかし昭和7年ごろ、京都では現金取引の原則が崩れ、
ナイフ・グラインダーに好転の兆しはなくなります。


次第に立石は専門の電気を恋うるようになりました。
そんなとき島津製作所で働いていた同級生と話していたときに、

レントゲン撮影用のタイマーの優秀なもの、
20分の1の撮影のできるタイマーができたらきっと売れるという
耳寄りな話を聞きます。

これはいけるとさっそく立石は試作品を作り、
大阪の日生病院に納めます。

病院の西岡博士にタイマーの説明をしたあと、
それをレントゲン装置につなぎ、撮影の実地試験をします。

一発で成功しました。


苦心の新商品が一発で合格して、
やっと本職の電気の道に戻ることができると、
立石はよろこびでいっぱいでした。

日生病院の西岡博士は「これはすぐにもつかえそうだ」と、
懇意の大日本レントゲン製作所社長に紹介してくださります。

トントン拍子に長期納入契約が決まり、
大阪で、立石電機製作所を創業することとしました。


レントゲン用タイマーの生産を始めたのが、
昭和8年5月10日。この日を立石電機の創業記念日としたそうです。

しかし台所は依然として火の車。
幸い自転車で二、三分のところに大日本レントゲンの工場があったので、
部品を持って自転車でひと走り、
そこのボール盤で穴あけ作業をやるという芸当を半年続けます。



「とかく、何がないからできぬとぜいたくをいうが、
 人間やる気になればどんなことをしてもできるものである」




レントゲン用タイマーの機能部品として
保護継電器を使っていたので、
これを汎用化し、配電盤メーカーに売るようになると、
お得意先が次々と増えていきました。


電気学会雑誌にも「継電器の専門工場」と広告を載せたら、
名古屋の重電の大手筋から申し出があり、大量受注。

立石電機製作所は急速に一人前に育っていきました。



日本が旧満州に進出するようになると、
継電器の需要も一段と増えていき、
月産二、三千台、従業員も二百五十人にまで膨れ上がりました。

昭和11年に二男信雄、14年に三男義雄が生まれました。



太平洋戦争に突入、
松竹京都第二撮影所だった土地に工場を疎開させます。

17年に次女順子、19年には四男忠雄が誕生。

昭和19年10月には、別荘地であった、京都市右京区鳴滝に
自宅も引っ越し疎開しました。

空襲で大阪の工場はやられ、部品は全部焼けてしまいます。


そして終戦。
戦後は軍需産業から平和産業へと180度転換します。


やがて電力危機が起きました。
政府はメーカーに積算電力計の大増産と
電流制限器の開発と量産への協力を要請。

三十社近くが電流制限器の生産を始めます。
しかし規制により、六社に淘汰されました。

立石電機はこの六社に残り、大繁盛。
作れば作るほど売れるという状況になりました。


しかし昭和24年ドッジ・ラインが設定され、思い切ったデフレ政策が断行され、
電力会社の購入資金の流れが一挙に止まってしまいます。

業界は大混乱し、
社長の自殺、一家没落の悲劇まで起こる騒ぎとなりました。

前年に法人化したばかりの立石電機も電力会社からの契約はご破算になり、
材料のストックで買い掛け金が増え、
ただならぬ苦境に直面してしまいます。


二百万円の負債をかかえて動きがとれなくなります。

会社を一応つぶして再建するほうがいっそ楽ではないかとも思ったりしましたが、
二年間債務の棚上げを協力工場に懇請、倒産の憂き目にあわずに済みました。



政策により、ビジネスが大きく左右されることはよくあることですが、
戦後の混乱期などは本当に情報が命を左右したのだろうと思います。




昭和24年、五男文雄が誕生しますが、
その後妻の体調が思わしくなく、診断の結果胃がんの疑いありと。

西式健康法など夫婦で取り組みますが、
甲斐もなく、昭和25年8月25日、再発したがんのために妻は亡くなってしまいました。
享年39歳でした。

五男二女を残して先立たれたわけですが、
長女の啓子がちょうど京都女専を卒業したばかり。
育児も家事も引き受け、文雄が中学に入るまで頑張ると言ってくれました。

しかし、そのために婚期を逃してはと立石は思い、
お手伝いを雇って、
啓子には「一年以内に嫁に行くように」と申し渡します。

そして実際昭和26年、啓子は京都の四方家に嫁いだのでした。



昭和27年のある日、
京阪神の能率に熱心な経営者の集まり、
上野陽一先生を囲む「落穂会」という会で、

米国にオートメーション工場というものができている、
これからの商品はオートメーションを前提として設計せねばならぬ
という話を聞きます。

立石はこの話が気になり、
昭和28年、オートメーションを新しいマーケットとして開発することにします。

オートメに必要なのは制御継電器。
マイクロ・スイッチ、マグネット・リレー、
タイム・リレーなどは手がけている。



「まだどこもやっていないので冒険ではあるが、
 やりがいのある仕事であると考えて、
 全社員に「ゴー!」の号令をかけた。
 今にして思えば、これこそが「企業の決定的瞬間」だったのである。」




起業、新規ビジネスをする場合、
こういうビジネスをやりたいんだよねといろんな人に相談することがあるだろうと思います。

多くの人に相談して、ほとんどの人がそれいいね!
というビジネスは、あまりうまくいかないことが多いです。

いろんな人がすでに手がけているビジネスだったりするからです。


この立石のオートメは、
昭和28年の時点ではまわりの人に相談したら、
まわりの人たちはおそらく理解できないので、

「やめておけ」

というのではないでしょうか。



昭和29年オートメーション用機能部品の本格的研究開発を始め、

“商売三年”

30年3月期には早くも保護継電器も含めて年商1億2000万円に達します。


会社も大きくなり、昭和37年には全社員が1700人を超えるようになります。
売り上げ30億円、資本金も4億円近くになりました。

昭和35年春には、無接点近接スイッチの開発に成功、
業界でも画期的な技術革新と言われます。


昭和38年には、京都大丸から地階の飲食コーナーに
自動券売機を据え付けたいから作ってくれと依頼があり製作。

科学警察研究所からにせ札発見機開発の要請、

国鉄、私鉄から乗車券自動販売機の要望、

警察から自動車の通過台数を自動的に測定できる車両検知器開発、

サラ金会社からローン・マシンの注文、

銀行から、中央の電子計算機につないで、
自分の口座から直接現金が引き出せるオンラインの自動現金支払機、

航空機搭乗券自動販売機などなど、


いま私達が空気のように使っている機械を
続々と開発しています。




立石電機では、昭和34年につくった社憲があります。


「我々の働きで、我々の生活を向上し、よりよい社会を作りましょう」


サリドマイド児用義手の開発、
重度身障者の雇用、
健康工学の研究開発など、
社憲にもとづいた事業をその後も次々と展開していきました。



さて、
現在のオムロンは、今年2011年、

49歳の若い山田義仁社長が就任し、
創業家の立石義雄会長が取締役を退任、
創業家一族が代表権を持つ役員から離れました。

昭和36年生まれの山田社長。
この社憲は34年制定ですのでほぼ同い年。


しかし、オムロンのホームページを読むと、
山田社長は、この立石が定めた社憲を掲げ、

「我々の働きで、我々の生活を向上し、よりよい社会を作りましょう」

と呼びかけています。

立石一真の精神はいまもオムロンの中に生き続けているのでしょう。








私の履歴書─昭和の経営者群像〈5〉




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