fc2ブログ

立石一真(立石電機社長)─昭和時代の私の履歴書

昭和の偉人たちが何を考え、失敗にどう対処し、
それをいかに乗り越え、どんな成功を収めたのか、

日本経済新聞に掲載されている、
自伝コラム「私の履歴書」から
探ってみたいと思います。


私の履歴書─昭和の経営者群像〈5〉


立石 一真(たていし かずま、明治33年(1900年)9月20日 - 平成3年(1991年)1月12日)は日本の実業家。

オムロンの創業者。1921年熊本高工電気(現:熊本大学)卒業。

熊本県熊本市新町に伊万里焼盃を製造販売する立石熊助 エイの長男として生まれた。
立石家は祖父・孫一佐賀県伊万里の地で焼き物を習得し熊本に移り住み、「盃屋」を店開きした。

兵庫県庁に勤務後1930年京都に「彩光社」設立。
1933年にオムロンの前身である「立石電機製作所」(重電用機能部品を生産)を設立。

戦後オートメーションの必要性からマイクロスイッチなどを自社開発し、
当時の立石電気の資本金の4倍もの資金をかけて中央研究所を設立する。
ここから計算能力をもつ自動販売機や自動改札機などを開発。

1991年1月12日死去。享年90。




明治33年熊本県生れ。
熊本工高卒、兵庫県庁などを経て、
昭和8年立石電機製作所創立。
23年株式会社とし社長。
30年代初期には機能部品で国内市場をほぼ独占。
40年代以後無人化に挑む。
平成3年1月12日死去。


私の履歴書は昭和49年5月に連載している。



現在のオムロンの創業者、立石一真のお話です。

創業社長の苦労がよくわかる話が
私の履歴書にはたくさんありますが、
気付いたのは、


創業社長が成功する過程はみんな似ている


ということです。

起業を目指す人は、この私の履歴書の、
創業社長のお話を読むだけでも
大いなるヒントが得られるのではないかと感じました。


立石の信条信念は

「最もよく人を幸せにする人が最もよく幸せになる」

というもの。


少年時代は貧困からスタートします。


明治33年9月20日に、
問屋町の熊本市新町三丁目で、長男として立石は生まれました。

立石の祖父は焼き物師で、
祖父の代に伊万里から熊本に引っ越し、
盃屋を店開きしたそうです。

鎮台熊本で、除隊する兵士向けに一組の盃をつくったり、
熊本土産、退営記念品などを販売し、
盛況だったようです。


しかし父親は芸術家肌で、絵付けなどを手伝います。
祖父がなくなったあと、父が経営を引き継ぐも悪化、
まもなく商売をやめて、窮乏生活に陥ります。

そして、明治41年、立石が尋常小学校一年生のときに
父親は42歳の生涯をとじたのでした。


全くの無収入となり、立石家の暮らしはどん底に陥ります。
母は決心し、下宿屋を始めますが、
暮らし向きはよくなりませんでした。

立石は小学校5年のとき、新聞配達を始めます。
少しでも家計の足しにという気持ちからでした。



また、立石の祖母は、しつけに厳しく、
食事が終わっても茶わんの中に一粒でも米が残っていると、

「米は農家の人たちが丹精こめてつくったもの、
 八十八人の手がかかっている。もったいないから食べてしまいなさい」

とたしなめられました。

箸の使い方もやかましく、
その置き場所が箸まくらのあるとき以外は
茶わんや食卓を汚さぬように使用した箸の先だけを食卓の外に出す。



また、立石の母親は熱心な日蓮宗の信者だったそうです。

立石が小学校高学年のころのある日、
遊んでいて川でけがをし出血した個所を手ぬぐいでまいて帰宅したら、

母親は勤行のとき唱えるお祈りの中の

「大難は小難、小難は無難になさしめたまえ」

を持ち出し、

「けがぐらいですんでよかった。骨折でもしていたらたいへんだった。
 よかったよかった」


と慰めたことがありました。


いかなる難儀でもそれは常に小難であり、
小難ですんでよかったとの感謝の気持ちを率直に言い表すもの。

立石は、幼少時代に宗教心をはぐくむ条件を与え、
環境をつくってやることが大切だと述べています。

親御が本当の信仰心を持ってそれを実行して見せることが大事だと。



貧しい環境でしたが尋常小学校は首席で卒業、
担任の先生の進めもあり、立石は熊本中学に進学することができました。

映画を楽しんだり、中学では友人もでき中学生活を楽しみますが、
新聞配達もがんばり、学費も稼ぎます。


卒業後は、海軍兵学校を志し、受験をします。
試験に合格はしたのですが、最後の体格検査で落ちてしまいます。

熊中の卒業生が何人か合格していましたが、
のちの第二次大戦でそのほとんどは戦死してしまったとのこと。

人間万事塞翁が馬です。



卒業後は、熊本高等工業学校に入学、
新設の電気化学を専攻しました。

しかし卒業のころには不況になり、
就職になかなかいい口はありませんでした。
先生から鹿児島の電気化学会社を紹介されますが、

立石はそのとき「舞台照明」の研究をしており、
その文献や参考書の多い、東京や大阪に行きたいと思っていたのでした。

先生には、この不況期に就職口を断るとはけしからんと怒られます。
しばらくして、最後の話だぞと、
先生が兵庫県土木課の就職の話をもってきたのでした。




大正10年4月、立石は兵庫県庁土木課技手として
サラリーマン生活を始めたのでした。

知事は宮崎県知事から転任してきたばかりの有吉忠一。
岩切章太郎の私の履歴書にも出てきた人ですね。

有吉は大淀川上流にわが国初の県営水力発電所を
建設したことで知られていましたが、
兵庫県でも発電所を5か所作る計画を立てていました。

立石の仕事は、その県営発電所建設の調査でした。

現地の農家に若い同僚と泊まり込み、
測量、山中を歩きまわりました。

山奥の現場では、金の使いようもなく、
ふところはあたたまるばかり。

長期出張だったので、宿泊料も加わり、
当時の課長の給料を上回るお金をもらっていました。

仲間と豪遊し、昼は玉突き、夜は芸者遊びに勤しみます。
俄分限者の豪遊。


田舎で豪遊の度が過ぎたのか、次第に町の評判になり、
公金の使い込みの疑いをかけられます。
警察から尾行まで付けられ、
県庁からは電気技手二人は帰庁せよとの命令。

仲間四人そろって辞表を出すことにし、
立石はあっさり県庁を退職してしまいました。



立石は母にはこの件を内緒にして、次の就職先を探すことにします。
それまで毎月30円を仕送りしていましたが、
この仕送りが二、三カ月ストップします。

母は何かあったのかと心配の便りをよこしますが、
そこは適当に返事をしてごまかしていたのだそうです。




二、三か月ぶらぶらしていると、同級生から次の就職口の話が舞い込みます。

同級生の会社が配電盤などを下請けに出していた
井上電機製作所。

大正11年10月、立石は
京都の油小路八条にある井上電機で再スタートを切ります。

従業員は二百人足らず。
技師長で常務の大渡が大阪高工の電気科第一期生で、
その後輩が多かったようです。

大渡常務が新技術の導入などを果たし、
ワンマン状態の会社。

立石は仕事熱心さが認められ、
検査の仕事のほか、重要な設計の仕事まで任せられるようになります。

このころは、米国GE社が開発した
限流リアクトルという発電機保護用機器が日本に輸入され始め、
井上電機もその国産化の第一号を大同電力から受注していたのだそうです。

試作機の作製に三日三晩徹夜で実験。
懸命の努力をしますが、思わしい結果は出ませんでした。


立石は回想し、


「この苦い経験で、私は新商品を出す場合は、
 万一不都合が出たら、どう手当てするかをあらかじめ考えておく

 ──いわゆるカリキュレーテッド・リスク(計算された危険)の
 思想がいかに大事か
ということを、
 いやというほど思い知らされた」


と述べています。

このころ米国ウェスチングハウス社が開発した
誘導形保護継電器が輸入されるようになり、
この国産化を立石はまかされます。

おかげで、井上電機では立石が
誘導形保護継電器のベテランになります。

当時はこの技術をもとに将来商売を始めようとは思っていませんでしたが、
くしくもこの技術を身に着けていたことが、
のちに立石電機創業につながります。


「いつも自分の受け持ちの仕事に打ち込め。

 功利的な思惑がなくても将来必ず何かに役立つときがある」



と、立石は常々若い社員に言っていたそうです。



立石は井上電機で活躍しますが、
第一次大戦後の世界的不況は京都の電機メーカーにも影響を及ぼします。

倒産寸前となった井上電機には人員整理の風が吹き、
結局立石は「希望退職」という形で、
やめることになりました。



井上電機では、直接担当した仕事はもちろん、
その他の仕事の様子も飲み込むことができ、
のちに立石電機を創業してから大いに役だったようです。



起業する場合には、
組織化された大企業よりも、
何でもやらなければいけない中小企業のほうが勉強になるとよく言われますが、
そういうことでしょうね。



井上電機の特許や実用新案はだいたい大渡常務の創案でしたが、
立石は平社員で初めて実用新案をとりました。

たくさんの受注をとり、立石は有頂天になりましたが、
のちに回想し、

「それが大渡常務を不愉快にしたのかもしれない」

と。その後、大渡常務に妨害され、おもしろくなかったようです。
意欲がそがれた立石は、暇にまかせて、

ズボンはさみ、ナイフとぎ、安全鳥かご、台所用品などの家庭用品ばかりを考案し、
力の入れどころの方向が横道にそれたといっています。

のちにこれが生きてくるのですが。


この経験から立石は、のちに、


若い社員にはヒントを与えて考案・特許の手助けをしてやり、
成功したら、その考案・特許は本人を考案者・発明者として出願させ、
花を持たせるようにしたそうです。



昭和3年山田元子と結婚。
翌4年長女、5年次女が生まれます。

そして不況風を受けて、昭和5年に退職したのでした。
兵庫県庁をやめたときとちがい、
今度は家族がいたので、のんきな気持ちにはなれませんでした。

何かやらねばという気持ちでいっぱいでした。
そこで不景気のときでも家庭用品なら売れるだろうと、

井上電機時代に実用新案をとっていた



ズボンはさみ



の商品化で一旗揚げようとしました。
いまのズボンプレッサーの電熱がないものですね。

しかし、このアイデアは三、四十年早すぎて失敗します。


「人間の心理は妙なもので、実用新案が登録され、
 証書を手にすると、まるで金儲けのおスミ付きをもらったような気になって、
 造りさえすればどんどん売れるとまで錯覚する。

 それで無理な投資をして失敗する。
 いわゆる町の発明家の悲劇がそこにある。
 私もいやというほど、これを経験した。」


退職金の100円だけではどうにもならず、
自宅を抵当に入れ、大阪の町の金融業者から700円を借ります。

そして、
「彩光社」の名前でズボンはさみを量産します。

しかし資金も使い果たし台所は火の車。

大丸の家具部に頼んで売り場に並べてもらったり、
家具屋の店頭に置いてもらうなど精いっぱいの努力はしましたが、
やはり売れませんでした。


「これもよく考えるとうかつなことで、
 新商品は説明販売で押さないとだめだという初歩的な原則さえ知らなかったのだ」

「ただ並べただけでは、これがどういう商品で、どういう使い方をするのか、
 顧客にはさっぱりわからない。」


当時の新興住宅地だった下鴨付近を中心に必死に家庭訪問販売をします。
昨日まではエリートサラリーマンをみずから任じていたのですが、
なんともわびしいかぎりと。

何とか一日一、二台が売れるようになり、
次の新商品として、

「ナイフ・グラインダー」の製品化を始めます。

しかしやはり売れません。

どうしたものかと立石は途方にくれます。
生活はどん底となっていました。


このお話は明日につづけます。







私の履歴書─昭和の経営者群像〈5〉







関連記事

コメント

非公開コメント

ご支援御礼(令和元年10月)

渡辺勝幸は令和元年10月に行われた宮城県議選に若林選挙区から立候補し、10,273票という貴重な票をいただき、宮城県議会議員に二回目の当選を果たしました。今後ともふるさと宮城の復興完遂のために尽力してまいりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

宮城県議選若林選挙区(令和元年10月27日執行・投票率28.18%)
当 渡辺勝幸    自民現  10,273
当 三浦奈名美   立民新 7,634
当 福島一恵    共産現 7,047
次 高橋克也    自民新 6,486

アクセスランキング

[ジャンルランキング]
地域情報
132位
アクセスランキングを見る>>

[サブジャンルランキング]
東北地方
20位
アクセスランキングを見る>>

最新記事

カテゴリ

全記事表示リンク

月別アーカイブ

メルマガを毎日書いています!

【仙台発!】政治家であり起業家である渡辺勝幸の日刊メルマガ。9年以上、3,300日以上連続でメルマガを書いています。政治経済の裏事情、起業家、経営者向けのおトク最新情報を、独自の視点と素早く貴重な情報で、意識の高い経営者、ビジネスパーソンに毎日お届け。1通20円ですが、得られる情報はメディアにないものとなります。失業、起業、震災、選挙落選、そして当選とここ数年波乱万丈な人生を送っている筆者が、東北の真の復興のための活動報告も。著者は宮城県議会議員(仙台市若林区)44歳。起業集団株式会社つくる仙台経営(起業支援、創業スクール事業)、東北大学大学院講師。
メルマガ購読・解除
 

ご支援御礼(平成27年10月)

渡辺勝幸は平成27年10月に行われた宮城県議選に若林選挙区から立候補し、10,041票という貴重な票をいただき、宮城県議会議員に初当選しました。今後ともふるさと宮城に強い経済をつくるために尽力してまいりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

宮城県議選若林選挙区(平成27年10月25日執行・投票率31.28%)
当 渡辺勝幸    自民新  10,041
当 福島かずえ   共産新 9,433
当 細川雄一    自民現 7,490
次 千葉あさこ   民主新 5,849

渡辺勝幸後援会事務所

渡辺勝幸後援会事務所
984-0816 仙台市若林区河原町1-7-29-101
TEL 022-398-6266 FAX 022-398-6269

最近の講演報告・講演実績

検索フォーム

アクセスランキング

ご支援御礼

渡辺勝幸は平成23年11月に行われた宮城県議選に若林選挙区から立候補し、5,042票という貴重な票をいただきましたが、落選いたしました。残念な結果ではありましたが、今後ともふるさと宮城の復興のために尽力してまいりますので、どうぞよろしくお願いいたします。

宮城県議選若林選挙区(平成23年11月13日執行・投票率34.65%)
当 細川雄一    自民現 7,728
当 本多祐一朗   社民現 6,536
当 千葉達     自民現 6,031
  福島かずえ   共産新 6,000
  渡辺勝幸    無新  5,042
  菊地ゆきお   み新 2,903
  小野寺かずたか 無新 978


120216 gaitorokuchonomeAkXOfoVCMAAmJYo 早朝街頭を続けています。平成24年1月撮影。

渡辺勝幸の政治活動を応援していただける方は、まず無料の「渡辺勝幸後援会メールマガジン」にご登録ください!

【渡辺勝幸応援団よりのお願いです】
渡辺勝幸後援会に入る方法

このブログについてご説明

このブログは、渡辺勝幸が3,300日以上毎日書いているメルマガ「日本一元気になるビジネスマガジン」の過去記事を中心に構成しています。メルマガでは、ブログに書けない話なども書いていますので関心のある方はぜひどうぞ。メルマガ登録はこちらから。

メルマガを3,300日以上毎日書いています

【仙台発!】政治家であり起業家である渡辺勝幸の日刊メルマガ。 9年以上、3,300日以上連続でメルマガを書いています。 政治経済の裏事情、起業家、経営者向けのおトク最新情報を、独自の視点と素早く貴重な情報で、 意識の高い経営者、ビジネスパーソンに毎日お届け。 1通20円ですが、得られる情報はメディアにないものとなります。 失業、起業、震災、選挙落選、そして当選とここ数年波乱万丈な人生を送っている筆者が、東北の真の復興のための活動報告も。 著者は宮城県議会議員(仙台市若林区)44歳。 起業集団株式会社つくる仙台経営(起業支援、創業スクール事業)、東北大学大学院講師。

Powered By FC2ブログ

今すぐブログを作ろう!

Powered By FC2ブログ

QRコード

QRコード

Facebookページに「いいね!」

「いいね!」するだけで、つくる仙台の日々の更新情報が届きます。たまに「ここだけの情報」をお伝えします!