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吉田忠雄(吉田工業社長)─昭和時代の私の履歴書

昭和の偉人たちが何を考え、失敗にどう対処し、
それをいかに乗り越え、どんな成功を収めたのか、

日本経済新聞に掲載されている、
自伝コラム「私の履歴書」から
探ってみたいと思います。


私の履歴書─昭和の経営者群像〈4〉



明治41年富山県生れ。
小学校卒業後、奉公先が倒産したため
昭和9年ファスナー製造のサンエス商会設立。
18年吉田工業と改称、20年社長。
機械化・自動化を進め、
YKKファスナーを世界ブランドに育て上げた。


「私の履歴書」は昭和52年8月に連載している。


吉田は、この履歴書の冒頭、
カーター米大統領の就任式典に出席したことから書き始めています。

子供のころ読んだ『カーネギー伝』に大いに感銘し、
吉田は経営哲学の基本として「善の巡環」を唱えました。

「善の巡環」で一番大事なのは貯蓄。
どんなアイデアも元手が必要と。

そして集まった資金を下に事業を発展させ、
製品の品質をよくし、
価格を安定させる。

その結果ユーザーのみなさんに喜んでいただけ、
需要が拡大する。

お得意先や関連産業も仕事が増え繁栄する。


その結果、高額の税金を納めることで道路や下水も整い、
国民生活が向上する。

つまり、個人や企業の繁栄がそのまま社会の繁栄へとつながっていくのだと。

これが吉田の言う「善の巡環」。



さらに、吉田は「善の巡環」による成果は独り占めせず、
三分配するべきと。

三分の一はよりよい製品をより安く供給することでユーザーに、

三分の一は原材料や部品、販売、流通など、ともに努力している関連産業に、

三分の一は私たち(企業)がいただくが、むろんこれも再投資する。






吉田は明治41年9月19日、富山県魚津市で生まれます。
当時の下中島村住吉でした。

半農半漁の寒村。四人兄弟の末っ子。

子供のころは野山を駆け巡り、
養鶏を商売にしていた父を手伝ったりします。

吉田は子供のころ、竹の皮を友達と集めて売ったり、
それを元手に網を買い、小魚を取って猟師に売ったりという
商売上手な少年でした。

兄弟はみなよく勉強し、学校の成績もよかったのでした。
男三兄弟がそろって一番を取って、
郡長さんからお褒めの言葉をいただいたこともあったのだそうです。



吉田は尋常小学校5年か6年のときに
「世に出て偉くなった人の伝記を、じっくりかみしめて読め」と先生から教わります。

野間清治講和集やカーネギー伝、服部金太郎伝を手に入れ、
吉田はむさぼるように繰り返し繰り返し読みます。
読むたびに涙があふれ出たのでした。


家のやりくりが大変だったので、
長兄次兄は小学校を出ると働きに出ていました。

吉田も学校の成績がよかったのですが、
上の学校に進学しないと聞いて先生方は大変残念がってくれたそうです。



尋常小高等科卒業も近づいた冬のある日、
二人の兄がやってきて、口々に、

「お前、さらに学校を続けたいのではないか。
 もしほんとうにその気なら、二人でがんばって、
 お前を大学まで行かせてやる」

と言います。

いささかの迷いはありましたが、家全体のことを思えば、どう考えても無理だろうと

「学校には行きたくない。
 卒業したあとは、何か商売をやる」

と吉田は答えます。

直後、泣けて泣けてしようがなかったと。
あわててトイレに駆け込んで、だれにもわからぬように、思い切り一人で泣きます。

心中ひそかに
「上の学校に進めなかったからといって、人には負けまい。
 今後、たとえどんなときでも、自分の最善をつくしてがんばることにしよう」

こう誓います。



高等小学校卒業後の大正12年、関東大震災が起きます。
震災後の不景気、高小出の吉田にまともな仕事はなく、
長兄がやっていたゴム靴売りを手伝います。


昭和3年10月、兄の商売から離れ、上京。

兄から餞別を受け取り、故郷をあとにしました。

吉田はひそかに貿易商になりたいと考え、
洋服に使うラシャの輸入商になろうと思っていました。

しかし、誰も吉田を使うところはなく、
職が見つからぬまま、懐がさびしくなる一方。


たまたま同郷の友達が勤めている店に寄ったら、
そこの主人に

「それならここに住み込んで働きながら、仕事を探したらどうか」

と言われます。

これが日本橋蛎殻町の古谷商店で、
中国から陶器を輸入販売していた店でした。

主人は古谷順平。年は七つ上。


吉田は、店の仕事を朝から晩まで一生懸命手伝います。
朝から晩まで働いたので、
折を見て職探しに出たいと古谷氏に言うと、

いっそこのまま店で仕事を手伝ってくれと。

こうして吉田は古谷氏の店に腰を落ち着けたのでした。


朝から晩までみっちり肉体労働。
昼間は瀬戸物を荷車いっぱいに積んで配達の日々。


昭和5年になると、主人から、
代わりに上海で仕入れをしてこいといわれるようになります。

大事な仕事を任せられ、吉田はとてもうれしく思いました。
上海からいちいち主人の許可を取り、
一日も欠かさず主人に報告書をかねた手紙を送ります。

その後毎年吉田は上海に行くようになりました。
日貨排斥、抗日運動で日中間はまさに一触即発の不穏な情勢。


昭和6年12月、上海にいた吉田は、
夜中に銃声を聞きます。

中国人に「戦争だアッ」とたたき起こされます。
世に言う上海事変でした。

なんとか日本租界に逃げ込みましたが、
港は日本に逃げようという人で超満員。
しばらく腰を落ち着けます。


そして、
吉田はそこで出会った
下関のトロール会社の上海出張員と親しくなり、
処分ができない魚を大量にうりさばきます。

店がしまっていたこともあり、飛ぶように売れました。
これはいけると、古谷商店に電報を打ち、
佃煮、乾物、漬物、塩から、何でもいいから上海に送れと。

陸軍にも品物を持ち込み、大歓迎されます。
二ヶ月ほどで二万中国ドルをもうけました。

吉田の才覚を感じますね。



しかし古谷商店自体はにっちもさっちもいかないところまできていました。
円が暴落し、為替差損を埋め合わせられなかったのでした。

古谷商店の店じまいに伴う一時期に、
吉田名義の借金があり、
これを返済するのにのちのちまで言うに言えない辛い思いをしたと回想しています。

完済したときに相手方が書いてくれた領収証は、
紙の色が黄色く変わるまで、
その後も長く手元に置き、時折引っ張り出してはながめたのだそうです。


昭和7年、いよいよ古谷商店閉鎖というとき、
主人と対座します。

────────────────────────────────────
【引用ここから】

それまでの四年間、文字通り寝食を惜しんでコマネズミのように働いてきたのに、
すべてが水ほうに帰したわけで、
むしょうに悔しくて、涙がポロポロ出てきてしようがなかった。

そのとき、それまでじっとおし黙っていた主人が言うのである。

「なあ吉田、われわれはこれまで中国の花びんや鉢などを人に売って暮らしてきた。
 だが、やがてはこうした中国陶器を買う身分になろうじゃないか」

ドン底に落ちた境遇にもかかわらず、この主人の言葉。

「よし、おれもやろう」という思いが、初めてわいてきた。

お金のことでは必ずしも恵まれなかったが、主人からは実に多くのことを学んだ。
この感謝の気持ちは、生涯変わることはないのである。


【引用ここまで】
────────────────────────────────────


昭和9年1月1日、資本金わずか350円で
古谷商店が副業として手がけていたファスナーの半製品を使い、

日本橋蛎殻町二丁目十六番地の古谷商店跡に、
サンエス商会という名前で店を開きました。

吉田は二十代半ば。
これが後の吉田工業、世界のYKKとなるのです。


このあとの吉田の人生については、
明日以降に記したいと思います。





私の履歴書─昭和の経営者群像〈4〉
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