外債事件で野村証券の奥村という名前は
一躍有名になってしまいます。
しかし奥村の座敷牢での生活は続いていました。
【満州視察へ抜擢】
昭和12年、奥村34歳のとき、
新興満州国の経済開発を目的に、
関西財界から視察団を派遣することになりました。
団長が安宅弥吉(甲南女子大創設)、
副団長に杉道助(慶應義塾ホッケー部創設者)、
といったそうそうたるメンバーで、
当時帝人取締役岩国工場長だった
大屋晋三氏なども加わっています。
もちろん、野村徳七氏にも参加の勧誘があったわけですが、
そのとき野村翁は、
「私は行けないが、そのかわり私の代理を出しましょう」
と、ついこの間まで座敷牢にいた奥村を
団員に指名したのでした。
これには奥村もびっくりします。
代理を出すとしたら当然役員クラスから選ぶべきところ。
しかし当時の野村系にあって、
野村徳七翁はまさに“天皇”
鶴の一声で決まってしまいます。
この常識を無視した人選に、
若き奥村はからだがぶるぶるふるえるほど感激します。
こうしていよいよ満洲行きとなりますが、
奥村には気になることがありました。
団員の顔ぶれを見るにつけ、
みんなが重役という中で、
若僧で一介の「主任」である自分が行くのは肩身が狭い。
大きいことの好きな中国相手でもあるし、
一計を案じ、
奥村はこっそり
「企画部長」という名刺をつくります。
もともと野村に企画部なんてのはありはしないのですが、
私製の「部長」として参加するのでした。
あとでこの名刺が大いにたたり、
「お前はいつ部長になったんだ」と
みんなからひやかされたそうです。
なかなかおもしろい人です。
一行は、満洲国で大いに歓迎を受けます。
皇帝自ら出てきたり、関東軍植田将軍も顔を出したりします。
当時の関西財界は、
中国経済に大きな影響力をもっていました。
奥村が満洲国で見たものは、
軍の参謀第四課の絶対的な勢力でした。
満州における一切の経済活動は、
この第四課の承認なしにはできないほど。
その第四課の思想的根底には社会主義経済があり、
財閥の支配する日本の資本主義的なやり方では
満州国の開発はとてもできないとするもの。
なかなかおもしろい指摘ですね。
戦後日本の歴史観からすると、
ちょっと流し読んだだけでは理解できない表現。
興味ある方はぜひこの部分を突っ込んでいただきたいものです。
飛ぶ鳥も落とす関東軍第四課にみんな遠慮していましたが、
奥村は恐れませんでした。
どうせ、これまでしばしば追い出される運命にあった軽輩。
せめて帰国したら、見たまま、聞いたまま、
感じたままを率直に言うのが本当だと思ったと。
「あの第四課に満州国の経済経営をまかせておいたんでは、とてもだめだ。
もし本気で満州国に日本の民間資本を導入しようというならば、
ただ社会主義的建設計画だけを前面にふりかざしている
第四課の近視眼的なやり方ではいけない。
単純な経済理論だけを持ち出しても、
元本の保証のないところに資本が集まる道理がないではないか」
この奥村の報告には、当時の満鉄総裁松岡洋右氏も、
わが意を得たりと同意。
学生時代から「こせこせした人間になるな」といった父も
このことを知ってよろこんでくれ、
野村徳七氏も「愉快なやつだ」とよろこんでくれたそうです。
座敷牢から出してくれた野村徳七翁の目の付けどころは
さすがだと思いますし、
こういう人事ができるところに昔の野村の強さを感じます。
奥村は自分を茶化して履歴書を書いているところが多いですが、
きっと推測するに、いろいろな人にかわいがられ、
助けられてこその、「座敷牢脱出」だったのではないでしょうか。
【敗戦、上層部がいなくなる】
敗戦により、財閥解体。
出世の遅れていた奥村は当時京都支社長。
財閥解体による追放令で、
常務以上は会社を辞めなければならなくなります。
人間何が幸いするかわからない。
出世が遅れたばかりに、奥村の首がつながったわけです。
上層部が全部追放され、
奥村がシャッポとしてはよさそうだという声が上がり、
社長に就任したのでした。
奥村綱雄、43歳。
社長になってすぐに大きな問題が起きます。
GHQが財閥の称号を使えないことになったから、
野村の二字を社名から取れと。
財閥系は、
三井が帝国、三菱が千代田、安田が富士というように
相次いで社名を変更。
しかし、奥村は容易には応じませんでした。
その時の奥村には、満州視察のときの
関東軍第四課が思い浮かんだのでした。
いまの司令部もしょせんはあのころの関東軍第四課。
このような政策がいつまでも続くとは思えない。
いつかはかつての満州国における第四課のように、
政策の修正を余儀なくされるときがきっと来る、と。
奥村は、何度言ってきてもあれこれと理屈をつけては逃げ通します。
ついに奥村は占領政策に反する、
社長を辞めさせてしまえとまでいわれます。
それでも奥村は臆せず、
「いまちょうどいい名前を考えている最中だから
もうちょっと待ってくれ」
とのらりくらり時をかせぎました。
─────────────────────────
【引用ここから】
野村という社名と信用は、一朝にしてできたものではない、
これには幾多の先輩の血と汗がしみ込んでいる。
証券あっての野村であり、野村あっての証券である、
この栄光ある社名を、ちっとやそっとのことで変えられますかい、
というのが私のハラであった。
そんなこんなでがんばっているうちに、
司令部のウェルシュという財閥課長に帰国命令が出た。
(それみたことか。やっぱり関東軍の第四課だったではないか。)
(中略)
こうして社名はついに守り通したが、私にこの勇気を与えてくれたのは、
死んだおやじ(会長野村徳七氏)だったと思う。
あのとき私を抜擢して満州視察にやってくれたからこそ、
司令部の勢いも畢竟関東軍第四課に変わらぬとみることができたのである。
まさに“死せる野村会長生ける司令部を走らす”というやつだ。
【引用ここまで】
─────────────────────────
若くして社長に就任した奥村は、
投資信託法の成立に尽力、
証券会社として投資信託の育成に初めて取り組みました。
奥村はその後、50代で会長に就任、
社長の席を譲ります。
奥村が言うには、会長ほどむずかしい仕事はない、と。
部長には「きみは重役のつもりでいたまえ。そして君の権限は次長にまかすようにしなさい」と言う。
課長には「あなたは部長のつもりで働くんだ。課長の仕事は代理にさせなさい。その方が大きくなるよ」と言う。
上も下もみんなこの調子で権限が移譲されているから、
自然に人材ができる。
奥村の人材術は参考にしたいものです。
そして最後に、財界の長老の言葉を奥村は書いています。
「実業人としてはほんとうの仕事をするのは四十五から六十五までの二十年間だ。
その二十年間に仕事の大骨ができる。
あとはすべて端数利子だ。
十億の仕事をすれば十億なりの、千億の仕事には千億なりの端数利子がつく。
おれはいま財界のボスとしていばっており、
おれが呼べば君たちは不承不承ながらも集まってくるが、
いってみれば、これも四十五から六十五の二十年間に築いた仕事のおかげだ。
つまり端数利子なのだ」
この履歴書を書いているのが、奥村57歳のときでした。
奥村は常々、
「人間が一人前になるには、
大病をするか
刑務所に入るか
放蕩(浪人)をするか いずれかの苦労をしなければいけない」
と言っていたのだそうです。
奥村は社長在任中の11年間は牢獄のようなものだったと
回想しています。
逆境にどのように対応するか人間が問われるのはそういうことだと
奥村は言っているのかもしれません。
『私の履歴書』に登場する人たちは、
この三つのうちまちがいなくどれかを経験していますね。
成功するための三つの条件と言えるのかもしれません。
私は、
「浪人」については
人様よりたくさん経験していると自負していますが、
まだ「大病」と「投獄」を経験していないので、
今後の人生で経験できるものならしてみたいものです。
死なない程度に。
私の履歴書─昭和の経営者群像〈3〉
- 関連記事
-
コメント