鹿島守之助は、明治29年2月2日に兵庫県揖保郡半田村に生まれました。
姫路近郊の豪農、永富敏夫の四男。
父は撫松山人と号して文人墨客と交わり、
関西詩壇に名声を得たとのこと、
また詩人で篤農家でもあり、
人格者として尊敬を受けていました。
そして長兄は京大哲学科の美学を専攻するも、
卒業後郷里へ帰らされ、相続人、地主となる教育をさせられます。
そして長年村長として地方の産業開発に貢献。
さらに母は、長男を中心として家を維持することが行動のすべてという人。
朝早くから夜遅くまでエネルギッシュに働く。
兄だけが特別扱いで、守之助たち弟はその補充として
育てていくに過ぎなかったと。
お魚でも兄は食べ放題で、
守之助が兄のように食べようとするといつも止められたのだそうです。
お前は分家になる身分だからあまりぜいたくの癖をつけてはならないと。
守之助が大学時代に社会主義の研究に没頭したのは、
この不公平な取り扱いに起因することが多かったと回想しています。
昔からいろんな伝記を読んできましたが、
社会主義者には生活が貧しくて活動家となる人も多いのですが、
富裕な家庭に生まれた人が
社会主義思想に傾倒することが意外とあります。
守之助は龍野中学から京都の第三高校に入学します。
学生時代は、文学青年であり、ドイツ文学にはじまり、
宗教、哲学、政治などを論じる日々。
とりわけ哲学では、ベルグソンの影響を受け、
「創造的進化論」に関心を示していたようです。
守之助はのちに自民党の国会議員となりますが、
以下のように述べています。
───────────────────────
【以下引用】
私は現在自民党に籍をおくものであるが、
自民党を保守党といわれるのがきらいである。
世の中は創造し進歩して行くのであって、
少なくともわれわれの了解する党は保守にあらずして、
エリオのように絶えず進歩向上する党でなければならないと思う。
その哲学的背景はベルグソンに根拠がある。
【引用ここまで】
───────────────────────
創造し進歩する、
こういう考えの人がまだいたのが、
この時代の自民党の幅広さを感じさせます。
東京大学法学部に入学、一生懸命講義を聞く学生だったそうです。
吉野作造先生へ提出した卒業論文は、
フランスのサンジカリズムの研究。
三高時代に守之助は「外交官であって文学者になりたい」
という希望をすでに持っていました。
そして高文にパスし、外交官試験にも合格した守之助は、
外務省に行くことになります。
最初の海外は、大正11年外務官補として
ドイツ駐在大使館勤務になりました。
このとき船で出会ったのが、
鹿島精一氏(鹿島組社長)
と、
永淵さん(鹿島組取締役)
でした。大西洋の船には日本人はこの三人だけで、
のちにつながるご縁が生まれたのはこの船だったそうです。
守之助は、ドイツ大使館時代に
ロシア革命の勉強ができたとよろこんでいました。
ドイツでは、文献を片っ端から集めていたようです。
大使館には思想問題に理解をもつ人がいなかったため、
社会党、共産党の情報を取って
守之助が報告するという役回りになりました。
「赤旗」「ホールウェルツ」など左翼の新聞を読み、
ミュンヘン一揆をおこしたナチスの情報を取りに行ったりもしています。
あるときエーベルト大統領臨席で、
劇作家ハウプトマンの生誕六十年祭に守之助は出席します。
ワイマール精神のシンボルとしての開催について、
内務大臣があいさつし、満員の観客は割れるような拍手を
ハウプトマン夫妻に送る。
その光景に感激する守之助。
翌朝の新聞には、
ドイツはゲーテ時代のように芸術と政治が合致したことに
大いなる誇りを感ずると書いていました。
政治家であってしかも芸術家たることを
守之助は理想としており、
大いに感激をします。
また守之助は、当時クーデンホーフ・カレルギーの
「パン・ヨーロッパ」に感銘を受け、
ソ連に対抗するためアジア連合を提唱していました。
アジアが連合しなければ、アジアの共産化、ソ連の侵略は不可避だろうと、
ベルリンから日本の雑誌に投稿していたのでした。
ドイツ国民党の領袖、ストレーゼマンの
強力な国民への指導ぶりにも守之助は感銘を受けています。
このドイツ大使館勤務は、
後の守之助に大きな影響を与えたように思います。
文学青年であり、哲学青年であったことから、
本人にとってもドイツ駐在は大いに有益であったでしょうが、
一党一派に偏せず、全体を見て判断できるようになったと
自分自身でも回想しています。
守之助は事業家というよりは、
いわゆる当時のエリート青年で、
その理想主義的な思考は、
当時のドイツにおけるワイマール体制に非常にマッチしていた
といえるかもしれません。
したがってこの時代以降の日本およびドイツの政治体制を考えると、
守之助の姿勢と世の中の雰囲気が合わなくなっていったのではないかと
推測します。
これだけの優秀なエリートでも、
時代が求めているかいないかで
その人生は大きく変わるのだろうなと感じました。
私の履歴書─昭和の経営者群像〈2〉
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