理念から社会事業、戦時の命がけの姿勢─江崎利一(江崎グリコ社長)その12─昭和時代の私の履歴書 - つくる!宮城県議会議員渡辺勝幸のブログ【仙台市若林区】

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渡辺勝幸について

【現職】
宮城県議会議員【仙台市若林区選出】
 宮城県議会 保健福祉委員会委員。
 宮城県議会 地域防災調査特別委員会委員。
 宮城県議会 議会改革推進会議委員。
 宮城県議会 政務活動費運用検討会議 検討委員。
 宮城県議会 決算特別委員会理事。

自由民主党・県民会議
 事務局次長。
 医療・福祉議員連盟 事務局次長。
 環境・エネルギー議員連盟 事務局次長。
 芸術文化議員連盟 事務局次長。
 防災議員連盟 事務局次長。
 日越(ベトナム)交流宮城県議会議員連盟 事務局次長。
 観光・情報議員連盟 事務局次長。
宮城県議会全国和牛能力共進会宮城大会を支援する議員連盟 副幹事長。
北朝鮮に拉致された日本人を救出し支援する宮城県議の会 事務局長。
宮城県議会国際リニアコライダーの誘致議員連盟 事務局長。
神道政治連盟宮城県本部議員連絡協議会 幹事。

自由民主党宮城県支部連合会
 県民運動本部 副本部長。
 憲法改正推進本部 事務局長。
 女性活躍推進本部 副本部長。
 青年局 局長代理。

仙石線整備促進期成同盟会 顧問。
全日本不動産政治連盟宮城県本部 顧問。
宮城県理容生活衛生同業組合 仙台若林支部 顧問。
宮城県私立幼稚園PTA連合会 常任委員長。
宮城県障害者スポーツ指導者協議会 副会長。
仙台市南地区交通安全協会六郷支部 顧問。
社会福祉法人ウェル千寿会 評議員。
宮城県薬剤師連盟 政策強化委員。

東北大学大学院情報科学研究科 非常勤講師(情報技術経営論)。
起業集団「株式会社つくる仙台」代表取締役。
ミラサポ(中小企業庁委託中小企業支援事業)専門家。
仙台東倫理法人会 監査。

仙台市立沖野東小学校PTA会長。
 沖東夏まつり実行委員会委員長。沖野学園学校支援地域本部協議会副会長。沖野中学校区青少年健全育成連絡協議会副会長。仙台市PTA協議会研修交流委員会委員。若林区まちづくり協議会会員。仙台市立沖野東小学校施設開放管理運営委員会委員長、学校保健委員会副委員長、学校関係者評価委員。沖野中学校区災害対策委員会委員。
沖野東学区民体育振興会参与。沖父ちゃん会(沖野東小おやじの会)顧問。沖野学区連合町内会大運動会実行委員会委員。仙台沖野ソフトボールリーグ顧問。






【経歴】 昭和50年5月10日生まれ。宮城県仙台市若林区出身。41歳。

昭和57年 沖野幼稚園(仙台市若林区)卒園
昭和63年 青森市立筒井小学校卒業
平成3年 仙台市立沖野中学校卒業
平成 6年 宮城県仙台第一高等学校卒業(高46回。二年間応援団長を務める)
平成11年 慶應義塾大学法学部政治学科卒業
     国会議員政策担当秘書資格試験合格

平成12年 参議院議員市川一朗(宮城県選挙区)政策担当秘書
平成13年 慶應義塾大学大学院法学研究科政治学専攻修士課程修了
平成19年 参議院自民党秘書会幹事(平成22年まで)
平成22年 参議院議員市川一朗政策担当秘書を退職

平成23年 経済産業省後援 起業支援ドリームゲートアドバイザー(平成24年まで)
     宮城県議会選挙(若林選挙区)に無所属で出馬

平成24年 林英臣政経塾塾生(東北七期)、大阪維新の会維新政治塾塾生、公益社団法人仙台青年会議所 会員開発委員会委員
平成25年 公益社団法人仙台青年会議所地域共同開発委員会幹事。仙台東倫理法人会幹事(青年委員長)。沖父ちゃん会(沖野東小おやじの会)初代会長
平成26年 東北大学大学院情報科学研究科講師(情報技術経営論・非常勤。現職)。
公益社団法人仙台青年会議所会員開発委員会委員。公益社団法人日本青年会議所憲法論議推進委員会委員。公益社団法人日本青年会議所東北地区宮城ブロック協議会LOM協働委員会委員。

平成27年 宮城県議会議員【仙台市若林選挙区】に初当選。宮城県議会経済商工観光委員会委員、産業振興対策調査特別委員会委員。

公益社団法人仙台青年会議所 総務委員会副委員長。公益社団法人日本青年会議所 日本の未来選択委員会委員。



【渡辺勝幸応援団から、平成28年政治活動についての講評】

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理念から社会事業、戦時の命がけの姿勢─江崎利一(江崎グリコ社長)その12─昭和時代の私の履歴書

2016年02月16日 18:00

昭和の偉人たちが何を考え、失敗にどう対処し、
それをいかに乗り越え、どんな成功を収めたのか、

日本経済新聞に掲載されている、
自伝コラム「私の履歴書」から
探ってみたいと思います。



私の履歴書─昭和の経営者群像〈10〉


江崎は戦時中、
満州、中国大陸、南洋諸島へとつぎつぎに事業を拡張しましたが、
自分の事業をどこまでも伸ばすこと自体に、
奉仕への喜びと楽しみがあったのでした。

商売一筋に生きてきた江崎ですが、
何のために事業をするのかという理念をさらにおしすすめ、

昭和9年、財団法人母子健康協会を設立します。


事業の発展に比例して、
社会へ奉仕還元すべきという江崎の信念から、
この事業は生まれました。


この信念の背景には、
少年時代の父の訓戒がありました。

江崎の生家は貧しく、
その貧しさのなかで江崎の父は次のように諭します。


「金を借りている人の前では、
 正論も正論として通らぬ。

 正しい意見を通すためにも、
 まず貧乏であってはならない。

 浪費をつつしみ、倹約につとめ商売に精を出して、
 ひとかどの資産を積んでもらいたい。

 しかし、くれぐれも注意したいことは、
 金を作るために金の奴隷になってはならない。

 世の人から吝嗇といやしめられてまで金を作ろうとしてはならない。

 そして金ができたら、
 交際や寄付金は身分相応より少し程度を上げてつとめていけ。

 それで金をこしらえていくのでなければ、
 りっぱな人間とはいえない。」


江崎の父は、
寺総代、宮総代、村の世話役など、
江崎に言わせると分相応以上に人のめんどうを見ていました。

江崎はこの訓戒を父の遺志として、
分相応に節約し、分相応に社会のお役に立つように実行してきたのでした。


昭和9年、グリコの事業から
ようやく年間50万円の利益を得る見通しがついたので、
その一部を社会へ還元したいと考えます。

そこで教育界、医学界、スポーツ界の懇意な方々に
相談したところ、いろいろとプランを考えてもらいます。

育英事業、身体不自由児対策事業、
母子健康増進事業などがありました。

結局、

「江崎さんは国民の体位向上に生涯をかけておられるのだから、
 その精神を生かして母と子の健康を考えた事業がいちばんよかろう」

ということに先生方の意見がまとまり、
母子健康協会が発足したのでした。

顧問や理事として、
鈴木梅太郎、嘉納治五郎、木下東作、戸田正三郎、
楠本長三郎、竹内薫兵、浦本政三郎、藤原九十郎、
杉本好一、下田吉人、片瀬淡、平林治徳、吉岡彌生
が参画しました。

こうしてスタートした母子健康協会は、
栗山重信先生を顧問に迎え、
毎年健康優良幼児の審査表彰と関連事業を行っています。





このように、江崎の理念が社会事業となったこと、
そして理念をもとにした事業ということで、
これは本業によい影響を与えたのだろうと推察します。





戦争はグリコ経営に大きな影を落とすようになってきました。


昭和15年を頂点として、
統制強化、原材料物資の窮乏などで、
漸次生産を抑制せざるを得なくなり、

太平洋戦争の勃発とともに乾パンの製造に転換します。

配給用グリコということで、
オマケをはずし、白いグリコに変わります。


昭和19年には、軍の要請で、
ついに国内工場の大部分を航空機生産に転換させられ、
ここに事実上、事業は終わりを告げました。

軍需工場へ切り替えられたこともあり、
敵機の爆撃目標となり、
昭和20年4月東京工場を、
6月大阪工場をいずれもほとんど焼失してしまいます。

当時工場は軍の管理下にあったので、
再建について陸軍に申し出ると、

爆撃を受けた場所は危険だから、
ほかのところへ疎開するように、
という強い意見でなかなか許可してくれそうもありませんでした。

江崎は粘ります。


「私は工場を死に場所と考えている。

 現在の用地を買収するときも、
 農民に襲われるほどの命がけの交渉を行ってきた。

 ほかにも生命の危険にさらされたことは、
 これまで三度もある。

 命が惜しいとは思わぬ。

 こんど建ててやられたら、もう一度建てる。

 力の続くかぎり何度でも建てるつもりでいる。

 だから、今の場所に工場を再建し、
 決死の覚悟で操業を続けたい」


軍は再建の許可を出します。

幸い近くに遊休倉庫があったので、
この資材を買い受けて建築をはじめます。

これがまさに出来上がろうとしたときに終戦となりました。

しかし、このトタン屋根のバラックのような一棟の建物が、
戦後復興の基礎になったのでした。


いずれにしても、
戦争のため全工場は丸焼け、
海外資産は接収となり、

大正11年グリコ創業以来、
営々として築いてきた事業もこれで完全にふり出しに戻ったのでした。



戦争中誰もが厳しい状況でしたが、
この時期にどのような姿勢でいるかによって、
たとえ一時的に財産を失ったとしても、
戦後の状況が変わってくるのだろうと感じますね。





私の履歴書─昭和の経営者群像〈10〉




昭和の高度経済成長を築きあげた経営者たちの私の履歴書。
過去の記事はこちらからどうぞ。






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