この早川種三は、私にとって同郷の大先輩。
そして時代はちがいますが、妙に親近感がわく人物です。
もちろん直接会ったことはありませんが、
七郷村南小泉(今でいう仙台市若林区)出身、
仙台一高、慶應義塾大学と同窓の先輩。
そして私のボスであった市川一朗先生も
若いころお世話になったことがある先輩だという
話を以前聞いたことがあったり、
また今回はじめて知りましたが、
早川種三の母は大垣出身で
小さいころはよくお盆に大垣に行ったとか、
いろんな共通点を感じつつ、
元茶畑とか三田とか、土地勘がある話ばかりで、
非常に目に浮かぶのでおもしろく読みました。
ちがうのは早川が偉人で、
私が凡人だということですね。。。
後輩としてがんばらねばなりません。
明治30年、宮城県宮城郡七郷村南小泉に早川は生まれます。
父智寛は、晩年仙台市長になるのですが、
九州豊前の小倉藩出身、長州に攻められ、維新を迎えます。
明治4年に大蔵省土木寮に出仕、
11年に宮城県野蒜築港所主任、
13年宮城県土木課長、
退官後早川組を設立、鉄道工事で急成長を遂げたそうです。
しかし明治23年利根川沿いに住んでいた家族が大洪水で流され、
妻と4歳の次女をなくします。
父は住まいを仙台に移し、後添いをもらうことに。
これが種三の母で、大垣戸田藩主の娘とのこと。
明治26年父は早川組を解散、資産を等分。
蔵王山麓の遠刈田と、仙台市花壇の広瀬川の河原に牧場を購入。
七郷村に仙台一中の、花壇には二高のそれぞれ学生寮を建てる。
明治36年に父は仙台市長に就任。
伊達家の財政顧問的な役割も担ったのだそうです。
父は
無欲で、公共のために尽くしたと早川は回想しています。
そして、明治37年早川は片平丁小学校に入学、
牧場でよく遊んだようですが、成績はよく、
明治43年東北一の名門と言われた仙台一中に入学します。
仙台一中は不審火により校舎が消失し、
元茶畑に新校舎が落成して間もなくのころに、
早川は入学することになりました。
早川は七郷村に戻り、一中に通いますが、
悪童仲間とわんぱくの限りを尽くします。
しかし市内では東北中学の猛者が幅を利かし、
一中生が殴られる事件が当時相次いでいたのだとか。
学校やわが家周辺でいたずらする程度のわんぱくだったと。
また、一中時代、地理の先生に双子が生まれ、
ある日の授業でこの先生が「日本の人口は何人か」
と問題を出したことがあったそうです。
当時日本の人口は5000万人だったので、とっさに
「5000万人と2人であります」
と答え、先生の怒りを買い、立たされたのだとか。
茶目っ気のあるいたずら小僧だったと早川は回想しています。
なんとなく同じ匂いがします。
成績は目に見えて落ちていったそうで、
その原因は、柔道、野球、相撲、ボートなど運動のつくものを
ほとんどやっていて、勉強はしなかったからと。
なかでも柔道には特に熱中、
また当時の校長が嘉納治五郎の高弟とのことで、
優秀な柔道教師を招へい、
唱歌室をつぶして専用道場ができたそうです。
今でも母校には立派な柔道場がありますね。
この柔道教師は、一中生をいじめる
他校の不良グループの一掃にも乗り出し、
一中生が殴られている現場に急行し、
逆に相手の生徒を殴り倒したのだそうです。
当時は「勇ましい先生」とかえって人気を呼んだのだとか。
当時第一次世界大戦で神出鬼没の活躍をしたドイツの巡洋艦
「エムデン号」にならって、この先生は
「エムデン」
と呼ばれたのだそうです。
卒業時の成績は下から数えて十番ぐらい。
しかし成績優秀者から順番に結核で倒れていったそうで、
「できの悪かった者ばかりが残って申し訳ない」
と同級生で言い合っていたのだそうです。
そして、
父が福沢諭吉を尊敬していたことから
慶應義塾を勧められて入学。
同じ豊前の出身ということで、
また交流もあったとのことです。
早川のいとこに当たる政太郎の面倒を
父親は見ていたとのこと。
この政太郎は福沢にかわいがられたようで、
明治25年幼稚舎の実質的な二代目舎長となっています。
ちなみに昭和に入ってから、
この政太郎家に早川は入籍し、
家督を継承することに。
このように早川は入学前から
慶應に運命の糸があったようで、
さらになんと慶應に「10年間」も在籍することになります。
学校から帰ると学生服を着物に着替えて
茶屋遊びに出かける毎日。
二十歳の時には相続権放棄による資産分配があり、
早川は若くして、いまでいうところの数億円を手に入れてしまい、
お茶屋遊びに一段と拍車がかかることになったのだそうです。
しかし実直な父が道楽に大金を使うことを許すはずもなく、
毎月けっこうな配当をもらいながらも、金の工面に苦労します。
――--――--――--――--――--――
【以下引用】
ある時、ほとほと困って仙台の父へ「カネオクレ、オクラネバシヌ」と電報を打った。
数日後、返事がきた。友達に「いくら入っていると思う」と見せながら、いい気になって封を切ったら、ただの二字「シネ」とだけ書いてあった。
【引用ここまで】
――--――--――--――--――--――
道楽も病気の域にまで達していたものの、
早川は友人に誘われ山岳部に入り、山登りをはじめます。
慶應義塾山岳部の創設は大正4年。槇有恒らが結成。
早川が入部したころにはすでに卒業していましたが、
槇は同じ仙台出身ということで親しみをもっていたのだそうです。
宮様と登山をした話や、山で生まれた固い友情、
そしてかけがえのない友を山で失った話など、
私も山登りが好きなので、いろんなことを思い出しました。
早川はこのような学生時代を過ごしたので、
落第また落第ということを重ねていましたが、
昭和35年からは慶應義塾評議員を務め、母校に貢献しています。
落第は実質五回。
予科二年の時に二度目の落第をしそうになって
大いにあわてたが、塾監局に毎日通ってなんとか書類に目を通してもらう。
が、「なんだ。三時間しか授業に出ていないではないか」とけんもほろろ。
そこを何とかとお願いすると、
それだけ熱心ならと「始末書」を書くことで何とか救われます。
今はこんなことはあり得ないでしょうが、
おもしろいエピソードです。
そしていよいよ来春卒業という大正12年9月、関東大震災が発生。
世の中は騒然、学業どころではなくなります。
そこで「来春は、特別に全員卒業させる」という風評が立ったのだとか。
すっかり安心した早川は相変わらず山登りに没頭。
卒業者発表の日も山からの帰りで早朝三田へ駆けつける。
どうせ成績はよくないはずだと一番下から見ていったが、どうしても見当たらない。
またも落第。
二人の兄に呼びつけられ、さんざん説教されたのだそうです。
母も気をもんでいたようで、
のちに仙台商工会議所会頭になる伊沢平勝氏が慶應へ進学すると聞くや
「種三のようになるからおやめなさい」
とわざわざ忠告に行ったのだとか。
慶應義塾を十年かけて卒業したものの、
山への思いは断ちがたく、
カナディアンロッキーの
未踏のアルバータ山に海外遠征、
大正14年に登頂に成功しました。
とここまででほぼ紙幅の半分が費やされるのですが、
早川の30歳までの人生は、
道楽
と言えば道楽です。
ちょっとうらやましいような気もしますが、
遊べるときに突き抜けるほど遊ぶという経験は、
もしかすると大事なのかもしれません。
早川の人生、常に金に困らなかったわけではなく、
後半の人生では夜逃げ同然の場面もあるわけですが、
お金のための人生では決してないということを
読んでいると感じます。
お茶屋遊びも道楽仲間がたくさんいたり、
登山も熱い友情をもつ仲間がたくさんいたり、
本当にいろんな人たちとつながるなかで、
人を相手とする勉強をたくさんしていた。
このことが後半の人生、
企業再建の実力発揮につながったのではないかと推測します。
[早川種三の名言 格言|自由の意味をはき違えていないか]
今の世の中、自由の意味をはき違えているような言動が目立つ。本来自由とは自分だけのものではなく、相手や他人様の自由を認めることによって成り立っているわけで、一人だけの完全な自由というものはあり得ません。自分自身の自由とは、他との関係によって制約されるものなのです。「自由は不自由の間にあって存す」自由というものの本質を突いた福沢諭吉先生の言葉です。
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企業の倒産を招く原因の多くは、経営者の怠慢です。利己的な経営や放漫経営が会社のタガを緩め、社員の勤労意欲をなくさせているケースが多いのです。上から下まで自己主張にばかり明け暮れているから倒産するのです。みんなが自我を捨て、滅私の努力をすることによって会社あるいは社会が成り立っているのであり、ひいてはそれが自分のためになるのです。
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私の履歴書─昭和の経営者群像〈1〉
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2015/02/17 15:03 by 古川典保 URL 編集