2015年11月17日 18:00
昭和の偉人たちが何を考え、失敗にどう対処し、
それをいかに乗り越え、どんな成功を収めたのか、
日本経済新聞に掲載されている、
自伝コラム「私の履歴書」から
探ってみたいと思います。
私の履歴書─昭和の経営者群像〈10〉
江崎は本業の薬屋のほかに、
朝の塩売り、夕方から夜にかけての登記代書、
これらの商売修業は徴兵検査を過ぎ、
23歳の応召まで続けられました。
五尺一寸そこそこの小柄な江崎でしたが、
結果は甲の二番で合格。
明治37年、
日露戦争が勃発、ついに江崎も看護卒として
小倉師団に召集されます。
これにより商売は一切中断。
この日があると期して続けてきた貯金が、
この時大変役に立ちます。
留守家族に対する心配は全くなく、
大いに御奉公に専念することができたのでした。
日露の戦いは激烈を極め、
野戦病院で看護中、
江崎もついに手に負傷を受け、
内地送還となります。
除隊になったのが明治38年7月。
このとき、白色桐葉章と150円の慰労金をもらい、
江崎は自転車を買うことにしたのでした。
そのころ、自転車は村で一台しかなく、
江崎は佐賀市内で見たピアス号という英国製が気に入ります。
しかし、200円では手が出ず、店の主人に何回かけ合ってもどうしてもまけてくれません。
やっと東京の本店に問い合わせ、
帰還兵ということと、
九州一円を行商で回るので宣伝にもなろうということで、
結局150円で売ってくれました。
江崎の家が70円で建ったころの話ですから、
当時の自転車は大変な財産でした。
江崎は除隊を機にいままでの商売をご破算にして、
舞台の大きな大阪に出て、
店員見習いから出直そうと思い立ちます。
しかしこれには家族はもちろん親類友人らの大反対にあいます。
「お前は長男ではないか。
老母もあれば弟妹もまだ子供だ。
今から見習いに出るといっても、
兵隊上がりでは年も行き過ぎている。
さっそく嫁でももらって家の商売を続けるがよい」
と異口同音にせめたてられます。
江崎はこれに返す言葉もなく、
明治39年3月、父の親友だった岸川豊次氏の晩酌で、
隣村の諸富に住む中溝イマと結婚しました。
江崎25歳、妻20歳のことでした。
2人は結婚式の当日、
初めて顔を合わせます。
江崎は、家族が多く母や姉とうまくいくことが大事と、
嫁探しを任せていたのでした。
しかし、妻イマはのちに大正8年、
病死してしまうのでした。
結婚後、江崎は本業の薬屋に専念します。
そして中学校の講義録、
さらには商売に欠かせない販売、宣伝広告、薬業などについて独学に励みました。
当時、佐賀市内にあった大坪書店から
「商業界」
を購読していたが、
この本の注文は、江崎のほかもう一人、
玉屋百貨店の前身、丸木屋呉服店の支配人ということでした。
結婚後、家業に専念してから一年余りたった明治40年の春、
かねて商売の勉強にはぜひ一度大阪へ行ってみたい
という念願がようやくかなうときがきます。
旧正月の一か月の農閑期大阪初見物を実行することにしたのでした。
薬の本場である道修町をのぞいてびっくりします。
佐賀でよく取り扱う人参などの薬品がたいへん安い。
江崎はさっそく有り金を全部はたいて
それらの品物を仕入れて郷里の店へ送ります。
自分で売りさばかなくても、
仲間卸をしても相当の利益があり、
けっこうな商売になります。
それからというもの、
毎年の旧正月には必ず大阪に仕入れに出かけ、
そのつど格安の品を仕入れることにします。
旅費を差し引いても50円から200円という利益になりました。
なかなかの大金で、
実は江崎が身を粉にしてかせぎ続けた八カ月間の薬屋の利益に匹敵したのでした。
江崎は大阪行きにより、
アタマとマナコの働かせ方次第で、
商売というものの妙味がいかに無尽であるかをつくづくと感じさせられたのでした。
私の履歴書─昭和の経営者群像〈10〉
昭和の高度経済成長を築きあげた経営者たちの私の履歴書。
過去の記事はこちらからどうぞ。
それをいかに乗り越え、どんな成功を収めたのか、
日本経済新聞に掲載されている、
自伝コラム「私の履歴書」から
探ってみたいと思います。
私の履歴書─昭和の経営者群像〈10〉
江崎は本業の薬屋のほかに、
朝の塩売り、夕方から夜にかけての登記代書、
これらの商売修業は徴兵検査を過ぎ、
23歳の応召まで続けられました。
五尺一寸そこそこの小柄な江崎でしたが、
結果は甲の二番で合格。
明治37年、
日露戦争が勃発、ついに江崎も看護卒として
小倉師団に召集されます。
これにより商売は一切中断。
この日があると期して続けてきた貯金が、
この時大変役に立ちます。
留守家族に対する心配は全くなく、
大いに御奉公に専念することができたのでした。
日露の戦いは激烈を極め、
野戦病院で看護中、
江崎もついに手に負傷を受け、
内地送還となります。
除隊になったのが明治38年7月。
このとき、白色桐葉章と150円の慰労金をもらい、
江崎は自転車を買うことにしたのでした。
そのころ、自転車は村で一台しかなく、
江崎は佐賀市内で見たピアス号という英国製が気に入ります。
しかし、200円では手が出ず、店の主人に何回かけ合ってもどうしてもまけてくれません。
やっと東京の本店に問い合わせ、
帰還兵ということと、
九州一円を行商で回るので宣伝にもなろうということで、
結局150円で売ってくれました。
江崎の家が70円で建ったころの話ですから、
当時の自転車は大変な財産でした。
江崎は除隊を機にいままでの商売をご破算にして、
舞台の大きな大阪に出て、
店員見習いから出直そうと思い立ちます。
しかしこれには家族はもちろん親類友人らの大反対にあいます。
「お前は長男ではないか。
老母もあれば弟妹もまだ子供だ。
今から見習いに出るといっても、
兵隊上がりでは年も行き過ぎている。
さっそく嫁でももらって家の商売を続けるがよい」
と異口同音にせめたてられます。
江崎はこれに返す言葉もなく、
明治39年3月、父の親友だった岸川豊次氏の晩酌で、
隣村の諸富に住む中溝イマと結婚しました。
江崎25歳、妻20歳のことでした。
2人は結婚式の当日、
初めて顔を合わせます。
江崎は、家族が多く母や姉とうまくいくことが大事と、
嫁探しを任せていたのでした。
しかし、妻イマはのちに大正8年、
病死してしまうのでした。
結婚後、江崎は本業の薬屋に専念します。
そして中学校の講義録、
さらには商売に欠かせない販売、宣伝広告、薬業などについて独学に励みました。
当時、佐賀市内にあった大坪書店から
「商業界」
を購読していたが、
この本の注文は、江崎のほかもう一人、
玉屋百貨店の前身、丸木屋呉服店の支配人ということでした。
結婚後、家業に専念してから一年余りたった明治40年の春、
かねて商売の勉強にはぜひ一度大阪へ行ってみたい
という念願がようやくかなうときがきます。
旧正月の一か月の農閑期大阪初見物を実行することにしたのでした。
薬の本場である道修町をのぞいてびっくりします。
佐賀でよく取り扱う人参などの薬品がたいへん安い。
江崎はさっそく有り金を全部はたいて
それらの品物を仕入れて郷里の店へ送ります。
自分で売りさばかなくても、
仲間卸をしても相当の利益があり、
けっこうな商売になります。
それからというもの、
毎年の旧正月には必ず大阪に仕入れに出かけ、
そのつど格安の品を仕入れることにします。
旅費を差し引いても50円から200円という利益になりました。
なかなかの大金で、
実は江崎が身を粉にしてかせぎ続けた八カ月間の薬屋の利益に匹敵したのでした。
江崎は大阪行きにより、
アタマとマナコの働かせ方次第で、
商売というものの妙味がいかに無尽であるかをつくづくと感じさせられたのでした。
私の履歴書─昭和の経営者群像〈10〉
昭和の高度経済成長を築きあげた経営者たちの私の履歴書。
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