【再録】先見性のある電力政策と松永の大局観─松永安左エ門(電力中央研究所理事長)その11(終)─昭和時代の私の履歴書 - つくる!宮城県議会議員渡辺勝幸のブログ【仙台市若林区】

渡辺勝幸について

【現職】
宮城県議会議員【仙台市若林区選出】
 宮城県議会 保健福祉委員会委員。
 宮城県議会 地域防災調査特別委員会委員。
 宮城県議会 議会改革推進会議委員。
 宮城県議会 政務活動費運用検討会議 検討委員。
 宮城県議会 決算特別委員会理事。

自由民主党・県民会議
 事務局次長。
 医療・福祉議員連盟 事務局次長。
 環境・エネルギー議員連盟 事務局次長。
 芸術文化議員連盟 事務局次長。
 防災議員連盟 事務局次長。
 日越(ベトナム)交流宮城県議会議員連盟 事務局次長。
 観光・情報議員連盟 事務局次長。
宮城県議会全国和牛能力共進会宮城大会を支援する議員連盟 副幹事長。
北朝鮮に拉致された日本人を救出し支援する宮城県議の会 事務局長。
宮城県議会国際リニアコライダーの誘致議員連盟 事務局長。
神道政治連盟宮城県本部議員連絡協議会 幹事。

自由民主党宮城県支部連合会
 県民運動本部 副本部長。
 憲法改正推進本部 事務局長。
 女性活躍推進本部 副本部長。
 青年局 局長代理。

仙石線整備促進期成同盟会 顧問。
全日本不動産政治連盟宮城県本部 顧問。
宮城県理容生活衛生同業組合 仙台若林支部 顧問。
宮城県私立幼稚園PTA連合会 常任委員長。
宮城県障害者スポーツ指導者協議会 副会長。
仙台市南地区交通安全協会六郷支部 顧問。
社会福祉法人ウェル千寿会 評議員。
宮城県薬剤師連盟 政策強化委員。

東北大学大学院情報科学研究科 非常勤講師(情報技術経営論)。
起業集団「株式会社つくる仙台」代表取締役。
ミラサポ(中小企業庁委託中小企業支援事業)専門家。
仙台東倫理法人会 監査。

仙台市立沖野東小学校PTA会長。
 沖東夏まつり実行委員会委員長。沖野学園学校支援地域本部協議会副会長。沖野中学校区青少年健全育成連絡協議会副会長。仙台市PTA協議会研修交流委員会委員。若林区まちづくり協議会会員。仙台市立沖野東小学校施設開放管理運営委員会委員長、学校保健委員会副委員長、学校関係者評価委員。沖野中学校区災害対策委員会委員。
沖野東学区民体育振興会参与。沖父ちゃん会(沖野東小おやじの会)顧問。沖野学区連合町内会大運動会実行委員会委員。仙台沖野ソフトボールリーグ顧問。






【経歴】 昭和50年5月10日生まれ。宮城県仙台市若林区出身。41歳。

昭和57年 沖野幼稚園(仙台市若林区)卒園
昭和63年 青森市立筒井小学校卒業
平成3年 仙台市立沖野中学校卒業
平成 6年 宮城県仙台第一高等学校卒業(高46回。二年間応援団長を務める)
平成11年 慶應義塾大学法学部政治学科卒業
     国会議員政策担当秘書資格試験合格

平成12年 参議院議員市川一朗(宮城県選挙区)政策担当秘書
平成13年 慶應義塾大学大学院法学研究科政治学専攻修士課程修了
平成19年 参議院自民党秘書会幹事(平成22年まで)
平成22年 参議院議員市川一朗政策担当秘書を退職

平成23年 経済産業省後援 起業支援ドリームゲートアドバイザー(平成24年まで)
     宮城県議会選挙(若林選挙区)に無所属で出馬

平成24年 林英臣政経塾塾生(東北七期)、大阪維新の会維新政治塾塾生、公益社団法人仙台青年会議所 会員開発委員会委員
平成25年 公益社団法人仙台青年会議所地域共同開発委員会幹事。仙台東倫理法人会幹事(青年委員長)。沖父ちゃん会(沖野東小おやじの会)初代会長
平成26年 東北大学大学院情報科学研究科講師(情報技術経営論・非常勤。現職)。
公益社団法人仙台青年会議所会員開発委員会委員。公益社団法人日本青年会議所憲法論議推進委員会委員。公益社団法人日本青年会議所東北地区宮城ブロック協議会LOM協働委員会委員。

平成27年 宮城県議会議員【仙台市若林選挙区】に初当選。宮城県議会経済商工観光委員会委員、産業振興対策調査特別委員会委員。

公益社団法人仙台青年会議所 総務委員会副委員長。公益社団法人日本青年会議所 日本の未来選択委員会委員。



【渡辺勝幸応援団から、平成28年政治活動についての講評】

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【再録】先見性のある電力政策と松永の大局観─松永安左エ門(電力中央研究所理事長)その11(終)─昭和時代の私の履歴書

2015年10月13日 18:00

昭和の偉人たちが何を考え、失敗にどう対処し、
それをいかに乗り越え、どんな成功を収めたのか、

日本経済新聞に掲載されている、
自伝コラム「私の履歴書」から
探ってみたいと思います。



私の履歴書─昭和の経営者群像〈9〉


松永は、動力需要の増加を外債により乗り切り、
また福岡の鉄道にも新たな事業として取り組んでいきました。

天神、博多のまちづくりの基礎、
西鉄の基礎が、
この松永にあったわけです。



さて、大正の末ころから昭和の初めにかけては、

電気事業を統制しよう

という論議が各方面に広がりました。

政界では政友会、政友本党、民政党、
さらに貴族院でも研究会あたりが、

いずれも大同小異の国有国営案を掲げ、
政府筋もこれに同調して金融界や
当の電力界でもそれぞれ統制案を作成していました。


松永も積極的に統制を主張します。

その根本は、民有民営を前提として、
事業のむだを排除し、電力の経済性を高めることを主眼に考えたのでした。


松永が大正末期に提案したのが、
水・火力併用の新しい体制で、

電力各社が共同の火力会社を設立し、
協調体制を深めて統制に発展させようとしました。

同時に、持論でもある
送電連係を確立することを主張します。

すでに火力の技術が相当に進んでいたので、
最優秀の火力と水力を併用して、常時電力をつくり出す方が、

全体的にみて経済的であることがわかったので、
その点を指摘したのでした。


この主張には、
その後北陸電力常務となる三井新次郎ら
逓信省の電気の専門家連が同じ意見をもっていました。


また昭和3年7月には、
戦後、現状に再編成したのとほとんど等しい案

──全国を九地域に分けて一区域一会社主義をとり、
群小会社は合同させ、できない場合はプールし、
供給区域の独占を認め、

鉄道省が多く持っていたような官・公営の火力設備も民営に移して
全国的に電力の負荷率・散荷率を向上させ、

料金は認可制とし、監督諮問機関として
“公益事業委員会”を設置すること

なども提唱していたのでした。


これは金融界が考えていた持ち株会社の設立や、
政府・政党などにあった半官半民の国策会社による統制などよりは、

具体的で徹底していると松永は考えていましたが、
多くの賛成は得られませんでした。


金融界のリードでできた電力連盟は、
いわば民間統制の機関でしたが、

水力開発の配分では、一社一地点を決めるようなこともあり、
いっこうに実があがりませんでした。


結局、昭和7年から実施された新しい電気事業法から、
官僚統制の一歩が始まり、

戦争が拡大するにつれて統制がだんだん強くなり、
ついには日本発送電株式会社(民有国営)の設立となって
電気事業が国家管理になり、

松永にとっては全面的敗北、
失敗の最たるものとなってしまったのでした。



しかし、電気事業に限ってみても、
未来に暮らす私たちにはわかるように、

松永が長い間考えていたことは、
戦後になってだいたい実現したのでした。




最後に松永はスポーツ歴について語っています。

子供のころは相撲と乗馬をよくやり、
水泳は長くやっていました。


また50代になって登山を始めます。

汗を流して難事をなしとげた快感を味わう、
登山もまた人生の縮図であると。

山は人跡未踏の地を好み、
南アルプスを好みました。

──────────────────────────
【引用ここから】


山小屋などもなく、
岩をかむ激流が三、四十尺の下を流れる一本の丸木橋を渡ったり、
三、四十度もある傾斜の断がいをのぼるなどで度胸を要したが、

この度胸がないと事業を発展させることができない。

そんなことを感ずるから私は山、
特に南アルプスが好きだったのである。


【引用ここまで】
──────────────────────────


松永は八十歳になったころから、

“国づくり”という課題を自分に与えて、取り組むようになりました。

財界の有力者連に話し、

産業計画会議

を設立します。
民間の各界から造詣の深い人たちに集まってもらい、

自由な創意と工夫に基づいて、
将来の経済計画を立てようと考えたのでした。


エネルギー対策、
任意償却性、
東京─神戸間高速自動車道路、
国鉄の改革、
たばこ民営、
北海道の開発問題、
海運政策─海運業再建案、
沼田ダムの建設、
東京湾埋め立て計画

などなど。

公表してからしばらくたっても、
着手の機運にいたらず、
世の中には構想が大きく映っていたと、
松永は述べています。




──────────────────────────
【引用ここから】


年寄りの考えることは「ちいさい」。

私ならこうやる。

といって買ってでる青年が現れないものだろうか。

(中略)

要は、創意と工夫、
努力と熱で新しい環境をつくりあげることである。

今日では、経済発展の原動力は、
物、金にあらずして、
技術、すなわち人が根源であることが定説となっている。

マンパワーの開発が、先決というのである。

(中略)

わが国の前途は、洋々たるものである。

(中略)

この観点に立って、
政治家、経済人、役人、学者、青壮年に望みたいことがあるが、

根底は、自己中心の考え、自愛ではなく、
互助、平等の他愛の精神を持つことである。

これは、世界の平和につながるもので、
同時に、われわれが発展していく道である。


【引用ここまで】
──────────────────────────





松永の人生はまさに「起業家人生」。

しかも事業のスケールが大きいものでした。
日本や地域を変えていくような事業を起こす人生でした。

しかしやはり、松永も多くの失敗を繰り返し、
浪人、大病、投獄を経験しています。


そして、松永の発想は

「常に大局的」

です。

目先のことを考えるのではなく、
海外の情勢はどうか、
将来の日本はどうか、

常に大きくものを考える事業家であったといえます。


あまりにも時代を先走りすぎてしまい、
苦労することもありましたが、

21世紀の未来の私たちから見れば、
松永の大局観に基づく事業展開、構想が当時は難しくとも、
その後、実現していることがわかりますね。


21世紀の現代に生きる私たちに対しても、
松永が青年世代に期待するものが大きいのではないか、

この履歴書を読んでそう感じざるを得ません。



私たちは思考を「ちいさく」考えていはしまいか?

自己中心ではなく、互助、平等の他愛の精神を持っているか?



そして

「私ならこうやる!」

と、買って出る精神を常に持っていなければならない!


そんなことを感じました。



松永安左エ門の私の履歴書は以上となります。





私の履歴書─昭和の経営者群像〈9〉




昭和の高度経済成長を築きあげた経営者たちの私の履歴書。
過去の記事はこちらからどうぞ。









(第1148号 平成25年11月5日(火)発行)
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