【再録】代議士に落選し病気で静養、そして「東邦電力」を起こす─松永安左エ門(電力中央研究所理事長)その8─昭和時代の私の履歴書 - つくる!宮城県議会議員渡辺勝幸のブログ【仙台市若林区】

渡辺勝幸について

【現職】
宮城県議会議員【仙台市若林区選出】
 宮城県議会 保健福祉委員会委員。
 宮城県議会 地域防災調査特別委員会委員。
 宮城県議会 議会改革推進会議委員。
 宮城県議会 政務活動費運用検討会議 検討委員。
 宮城県議会 決算特別委員会理事。

自由民主党・県民会議
 事務局次長。
 医療・福祉議員連盟 事務局次長。
 環境・エネルギー議員連盟 事務局次長。
 芸術文化議員連盟 事務局次長。
 防災議員連盟 事務局次長。
 日越(ベトナム)交流宮城県議会議員連盟 事務局次長。
 観光・情報議員連盟 事務局次長。
宮城県議会全国和牛能力共進会宮城大会を支援する議員連盟 副幹事長。
北朝鮮に拉致された日本人を救出し支援する宮城県議の会 事務局長。
宮城県議会国際リニアコライダーの誘致議員連盟 事務局長。
神道政治連盟宮城県本部議員連絡協議会 幹事。

自由民主党宮城県支部連合会
 県民運動本部 副本部長。
 憲法改正推進本部 事務局長。
 女性活躍推進本部 副本部長。
 青年局 局長代理。

仙石線整備促進期成同盟会 顧問。
全日本不動産政治連盟宮城県本部 顧問。
宮城県理容生活衛生同業組合 仙台若林支部 顧問。
宮城県私立幼稚園PTA連合会 常任委員長。
宮城県障害者スポーツ指導者協議会 副会長。
仙台市南地区交通安全協会六郷支部 顧問。
社会福祉法人ウェル千寿会 評議員。
宮城県薬剤師連盟 政策強化委員。

東北大学大学院情報科学研究科 非常勤講師(情報技術経営論)。
起業集団「株式会社つくる仙台」代表取締役。
ミラサポ(中小企業庁委託中小企業支援事業)専門家。
仙台東倫理法人会 監査。

仙台市立沖野東小学校PTA会長。
 沖東夏まつり実行委員会委員長。沖野学園学校支援地域本部協議会副会長。沖野中学校区青少年健全育成連絡協議会副会長。仙台市PTA協議会研修交流委員会委員。若林区まちづくり協議会会員。仙台市立沖野東小学校施設開放管理運営委員会委員長、学校保健委員会副委員長、学校関係者評価委員。沖野中学校区災害対策委員会委員。
沖野東学区民体育振興会参与。沖父ちゃん会(沖野東小おやじの会)顧問。沖野学区連合町内会大運動会実行委員会委員。仙台沖野ソフトボールリーグ顧問。






【経歴】 昭和50年5月10日生まれ。宮城県仙台市若林区出身。41歳。

昭和57年 沖野幼稚園(仙台市若林区)卒園
昭和63年 青森市立筒井小学校卒業
平成3年 仙台市立沖野中学校卒業
平成 6年 宮城県仙台第一高等学校卒業(高46回。二年間応援団長を務める)
平成11年 慶應義塾大学法学部政治学科卒業
     国会議員政策担当秘書資格試験合格

平成12年 参議院議員市川一朗(宮城県選挙区)政策担当秘書
平成13年 慶應義塾大学大学院法学研究科政治学専攻修士課程修了
平成19年 参議院自民党秘書会幹事(平成22年まで)
平成22年 参議院議員市川一朗政策担当秘書を退職

平成23年 経済産業省後援 起業支援ドリームゲートアドバイザー(平成24年まで)
     宮城県議会選挙(若林選挙区)に無所属で出馬

平成24年 林英臣政経塾塾生(東北七期)、大阪維新の会維新政治塾塾生、公益社団法人仙台青年会議所 会員開発委員会委員
平成25年 公益社団法人仙台青年会議所地域共同開発委員会幹事。仙台東倫理法人会幹事(青年委員長)。沖父ちゃん会(沖野東小おやじの会)初代会長
平成26年 東北大学大学院情報科学研究科講師(情報技術経営論・非常勤。現職)。
公益社団法人仙台青年会議所会員開発委員会委員。公益社団法人日本青年会議所憲法論議推進委員会委員。公益社団法人日本青年会議所東北地区宮城ブロック協議会LOM協働委員会委員。

平成27年 宮城県議会議員【仙台市若林選挙区】に初当選。宮城県議会経済商工観光委員会委員、産業振興対策調査特別委員会委員。

公益社団法人仙台青年会議所 総務委員会副委員長。公益社団法人日本青年会議所 日本の未来選択委員会委員。



【渡辺勝幸応援団から、平成28年政治活動についての講評】

【渡辺勝幸応援団から、平成27年政治活動についての講評】

【渡辺勝幸応援団から、平成26年政治活動についての講評】

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【再録】代議士に落選し病気で静養、そして「東邦電力」を起こす─松永安左エ門(電力中央研究所理事長)その8─昭和時代の私の履歴書

2015年09月22日 18:00

昭和の偉人たちが何を考え、失敗にどう対処し、
それをいかに乗り越え、どんな成功を収めたのか、

日本経済新聞に掲載されている、
自伝コラム「私の履歴書」から
探ってみたいと思います。


私の履歴書─昭和の経営者群像〈9〉


松永は、九州の電気と交通をまとめ上げ、
さらに政界にも進出しました。


この衆議院議員時代に松永は、
さらに各界と親交を深めました。

上海では孫文と議論をしたり、
第一次大戦の講和会議で代表団の一員に選ばれた松永は、

全権西園寺公望とその秘書格としてつれてきた
近衛文麿(当時27,8)と行動を共にします。


──────────────────────────
【引用ここから】

ブリュッセルの会議で、
レオポルド三世が出席した食事のとき、
近衛が私の向かいにすわっていた。

日本人はみなモーニングだが、
中年のイギリス代表がふだん着で私の右側にいた。

私は

「この人は日本のプリンス近衛で、講和会議にきた」

と紹介したが、別に敬意を表そうともしない。

そうして本人に聞こえるように

「プリンスとかなんとかは意味がない。
 この人はどういう仕事をした、
 どんな意見をもっているかを聞かしてもらいたい。

 われわれとプリンスとは別に関係のないことだ」

という。

私も一本参ったが、
これは近衛には西洋人の考え方を知るうえで大変参考になったと思う。


後年、私は電力国家管理に反対し、
首相の近衛を荻外荘に訪問して

「国家が要求しているのは電力そのもので、事業ではないはずだ。
 軍部や官僚のイデオロギーにとらわれた主張に押し切られるようでは、
 政治家としてまことにたよりない。

 ここは一番毅然たるところを示してくれ」

と要望したのに対し、
近衛は私には“全く同感である”と言っていたが、
結局はズルズルと弱気を重ねて、自らの悲劇を招いてしまった。

堂ヶ島の私の別荘に遊びに来て泊っていったこともあり、
青年時代からの知り合いだけに気の毒しごくであるが、
それにつけても近衛には“ノー”と言える勇気がほしかった。


【引用ここまで】
──────────────────────────


松永の代議士時代は、
大正9年2月に終了します。

原内閣が憲政会、国民党、新政会の野党三派が連合して提出した普通選挙法案に反対し、
突然議会を解散したためで、

落選を機に松永は政治家を卒業したことにしました。


そして下関でひいた風邪をこじらせてしまい、
そこから約二年もの間、
唐津の虹ノ松原、海浜荘で静養をしました。

書物を読んだり、
字の稽古をしたり、
世の中を嘆じてみたり、

松永は回想し、

「この小休止は次の活動のためにたいへん効果があった」

と述べています。




この松永の履歴書を読んで皆さんも感じたことと思います。

多くの成功者たちの「私の履歴書」から見えてきた成功の三要件、


「放蕩(浪人)」

「大病」

「投獄」


この3つのどれかをほとんどの人物が経験しています。

この逆境をいかに乗り越えていくか、
これが成功者の人生なわけです。


松永はすでに浪人、すなわち、

石炭、株、中国事業で大損、
自宅は火事に、

という経験を一度にしていますが、

さらに明治43年ごろ、

「投獄」

も経験しています。


そして衆議院議員落選後に、
病気をして二年間静養をするという「大病」をも経験しているわけです。


3つすべてを経験している人物ですから、
松永の履歴書がおもしろいのもうなずけます。


すべての逆境ををものともせず、
再び立ち上がり、さらに大きな仕事をやってのけていきました。






その後、九州電灯鉄道と関西電気が合併したのが、
大正10年11月で、
松永はそれからの二、三年間は猛烈に忙しかったのでした。

それに耐ええたのは、
この静養があったからだと言っています。


関西電気は、福沢桃介が社長をし、
名古屋電灯が奈良の関西水力電気を吸収合併した会社。

この合併に引き続き九州電灯鉄道と一緒になり、


「東邦電力」


が誕生したのでした。

広く社名を公募し、大正11年から東邦電力がスタートします。


この東邦電力は、
九州、近畿、東海地方一府十県に及ぶ供給区域を持つことになります。

また電気だけではなく、
関西電気のガス事業、岐阜、三重県下のガス事業を一丸として東邦瓦斯を設立、
附帯事業も統合して、東邦電機製作所を設立、事業体制を整備します。


東邦電力の社長は九州以来の伊丹弥太郎、
松永は副社長になります。

桃介は、大正3年以来、
名古屋電灯で社長をやっていました。

名古屋電灯は、旧藩時代の失業藩士を救済する目的で企てられた事業で、
日本でも古い歴史を持つ電灯会社でした。

しかし名古屋地方での電力の供給不足はひどく、
中京財界、新聞は、桃介を攻撃していました。

さらに桃介は木曽川開発の資金ねん出のため、
二割もの配当を行って株価つり上げを計ったり、

市会議員を手なずけるという政治的な動きもしていました。

名古屋は加藤高明の出身地で、憲政会の地盤。
しかし桃介は一時千葉県選出の政友会代議士だったのでした。

そんな反感も加わって、桃介の人気は悪く、行き詰っていました。


ここで松永は間に入り、
合併に次ぐ合併で事態の打開を図ったのでした。


実際に東邦電力が生まれて早々、
松永は中京地方の電気事業の立て直しを図りますが、

会社は全く体をなしていませんでした。

事務所は乱雑。
工員が使う自転車はどこにも乗り捨ててあり、
倉庫は新品と廃品がごっちゃに。

まずは事務所の整理整頓からはじめます。

便所に男女の区別をつけ、
白壁に塗り替えるというそんなところから着手します。

停電対策として、修繕作業を指揮し、
送配電線の改善を図ります。

資金は膨大なものとなりました。


一方で松永は大口需要先の実業家、
県や市の役所筋、有力者を歴訪して、
改善について了解を求め、約束してまわりました。


停電が解消し、電圧が正常になり、
信用を回復するまでには相当な努力が必要でしたが、

禍が転じて福となり、
松永にとってはありがたい試練となったと回想しています。


なぜこんな状態になったのか。
それは桃介の方針に原因がありました。

人物のスケールが大きいだけに、
細かい仕事には向きません。

大同電力が長くそうであったように、
彼は水力開発に興味があり、一軒一軒に電気を売るようなことは不得手で、
卸売りを事業の中心に考えていたのでした。


東邦電力になってしばらくして、
名古屋に3万5千キロ2台という、
当時日本最大ユニットの火力を松永は設置します。

この火力設備は、当時のニューヨークタイムズに大きく取り上げられました。

極東の中都市に、米国でもいくつもない最新設備がみられるとは思いがけなかった、
と報じられましたが、

松永にとっては、
そのときそのときの最高のものを設置するのが自分の流儀なのでした。


中小企業に電力の使い方をPRしたり、
家庭電気器具の普及をはかったりします。

電気が安ければ需要が増える。
そこでさらに能率のいい設備をする。


いわゆる良循環で、
松永は基幹産業はこうあるべきだと、
電力事業を見ていたのでした。





松永のこの話は、
まさに電力事業の黎明期の話ですが、
小さな起業のヒントがここにもあるように感じましたね。







続きはまた来週に。




私の履歴書─昭和の経営者群像〈9〉



昭和の高度経済成長を築きあげた経営者たちの私の履歴書。
過去の記事はこちらからどうぞ。










(第1113号 平成25年10月1日(火)発行)

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