2015年07月03日 18:00
ここからの文章は、
「徒善」、単なる善意でも、
「徒法」、形だけの制度でも役に立たず、
法と善とが兼ね備わるのでなければ、
真の政治にはならぬことを語って、
しかもその両者のうちの法に重点を置き、
いまの政治家が、
仁の心があり、仁の人だという評判がありながら、
その実恵が民衆に及んでいないことを批判したのでした。
ここで孟子の言う「法」とは「王政」のことです。
また「仁政」のことです。
しかしながら、後世の為政者は深くその真意を察しないで、
かえってこの言葉に誤られて、
形だけを真似するものが現れました。
例えば宋の王安石、
明の方孝孺のごとき人物がそれです。
彼らは、
「政治の要訣は法、
すなわち制度の善悪を見定めることにある」
と考えました。
それゆえに努めて当時の法律制度をあらためようとしたのです。
これは大いにまちがっています。
道に盛衰があり徳に厚薄があって一様ではないとはいえ、
新しい国を建てて後世に伝えた君主には、
必ず長く伝えるに足り得る制度を設けているものです。
それゆえに、
その国を守るべき臣下たるものは、
務めて祖宗が定めた法律制度を研究しなければなりません。
かつそれが形式だけのものにならないようにするためには、
自身の徳を修めることが根本なのです。
もし自身の徳を修めることを知らず、
また祖宗の定めた法律制度があることをも知らず、
別に、古代のすぐれた王の法を求めたり、
周室の制度を模倣したりするならば、
必ず矛盾が生じ、
大害大変を生ずるものである。
そしてこの点こそ、
安石や孝孺が失敗した理由なのです。
それならば孟子が、
先王のやり方を非難するものは、
おしゃべりというものだ、
といっているのは誤りであるか。
いや、それは誤りではなく、
政治を行うに当たっては、
極端に流れることを除かねばなりません。
孟子の時代は戦国で、
諸国の政治が大いに乱れていました。
それゆえに、その極端に流れることを除いて、
周の代の姿に戻したいと思ったのです。
そのうえ、孟子の時代は大いに乱れているとはいえ、
なお周代の風が残っていたのであって、
宋代に安石が、
明代に孝孺が、
周代の制度を用いて、従来の制度を変革し、
大いに人情に反し、人々の目を驚かすようなことをしたのとは、
ちがっていたのです。
このことを理解していなければなりません。
ということを約150年前の日本において、
政治犯として牢屋の中にありながら、
囚人と看守に対して
熱心に教えた人がいたのでした。
その政治犯は間もなく
斬首刑になってしまいます。
そして時は立ち、
その政治犯の弟子たちが、
明治維新の原動力となり、
日本を変えていったのでした。
⇒ この本をときどき繰り返し読んでいます。
「徒善」、単なる善意でも、
「徒法」、形だけの制度でも役に立たず、
法と善とが兼ね備わるのでなければ、
真の政治にはならぬことを語って、
しかもその両者のうちの法に重点を置き、
いまの政治家が、
仁の心があり、仁の人だという評判がありながら、
その実恵が民衆に及んでいないことを批判したのでした。
ここで孟子の言う「法」とは「王政」のことです。
また「仁政」のことです。
しかしながら、後世の為政者は深くその真意を察しないで、
かえってこの言葉に誤られて、
形だけを真似するものが現れました。
例えば宋の王安石、
明の方孝孺のごとき人物がそれです。
彼らは、
「政治の要訣は法、
すなわち制度の善悪を見定めることにある」
と考えました。
それゆえに努めて当時の法律制度をあらためようとしたのです。
これは大いにまちがっています。
道に盛衰があり徳に厚薄があって一様ではないとはいえ、
新しい国を建てて後世に伝えた君主には、
必ず長く伝えるに足り得る制度を設けているものです。
それゆえに、
その国を守るべき臣下たるものは、
務めて祖宗が定めた法律制度を研究しなければなりません。
かつそれが形式だけのものにならないようにするためには、
自身の徳を修めることが根本なのです。
もし自身の徳を修めることを知らず、
また祖宗の定めた法律制度があることをも知らず、
別に、古代のすぐれた王の法を求めたり、
周室の制度を模倣したりするならば、
必ず矛盾が生じ、
大害大変を生ずるものである。
そしてこの点こそ、
安石や孝孺が失敗した理由なのです。
それならば孟子が、
先王のやり方を非難するものは、
おしゃべりというものだ、
といっているのは誤りであるか。
いや、それは誤りではなく、
政治を行うに当たっては、
極端に流れることを除かねばなりません。
孟子の時代は戦国で、
諸国の政治が大いに乱れていました。
それゆえに、その極端に流れることを除いて、
周の代の姿に戻したいと思ったのです。
そのうえ、孟子の時代は大いに乱れているとはいえ、
なお周代の風が残っていたのであって、
宋代に安石が、
明代に孝孺が、
周代の制度を用いて、従来の制度を変革し、
大いに人情に反し、人々の目を驚かすようなことをしたのとは、
ちがっていたのです。
このことを理解していなければなりません。
ということを約150年前の日本において、
政治犯として牢屋の中にありながら、
囚人と看守に対して
熱心に教えた人がいたのでした。
その政治犯は間もなく
斬首刑になってしまいます。
そして時は立ち、
その政治犯の弟子たちが、
明治維新の原動力となり、
日本を変えていったのでした。
⇒ この本をときどき繰り返し読んでいます。
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