【再録】50年後の車社会を戦後間もなく作り上げていた男─石田退三(トヨタ自動車工業社長)その3(終)─昭和時代の私の履歴書 - つくる!宮城県議会議員渡辺勝幸のブログ【仙台市若林区】

渡辺勝幸について

【現職】
宮城県議会議員【仙台市若林区選出】
 宮城県議会 保健福祉委員会委員。
 宮城県議会 地域防災調査特別委員会委員。
 宮城県議会 議会改革推進会議委員。
 宮城県議会 政務活動費運用検討会議 検討委員。
 宮城県議会 決算特別委員会理事。

自由民主党・県民会議
 事務局次長。
 医療・福祉議員連盟 事務局次長。
 環境・エネルギー議員連盟 事務局次長。
 芸術文化議員連盟 事務局次長。
 防災議員連盟 事務局次長。
 日越(ベトナム)交流宮城県議会議員連盟 事務局次長。
 観光・情報議員連盟 事務局次長。
宮城県議会全国和牛能力共進会宮城大会を支援する議員連盟 副幹事長。
北朝鮮に拉致された日本人を救出し支援する宮城県議の会 事務局長。
宮城県議会国際リニアコライダーの誘致議員連盟 事務局長。
神道政治連盟宮城県本部議員連絡協議会 幹事。

自由民主党宮城県支部連合会
 県民運動本部 副本部長。
 憲法改正推進本部 事務局長。
 女性活躍推進本部 副本部長。
 青年局 局長代理。

仙石線整備促進期成同盟会 顧問。
全日本不動産政治連盟宮城県本部 顧問。
宮城県理容生活衛生同業組合 仙台若林支部 顧問。
宮城県私立幼稚園PTA連合会 常任委員長。
宮城県障害者スポーツ指導者協議会 副会長。
仙台市南地区交通安全協会六郷支部 顧問。
社会福祉法人ウェル千寿会 評議員。
宮城県薬剤師連盟 政策強化委員。

東北大学大学院情報科学研究科 非常勤講師(情報技術経営論)。
起業集団「株式会社つくる仙台」代表取締役。
ミラサポ(中小企業庁委託中小企業支援事業)専門家。
仙台東倫理法人会 監査。

仙台市立沖野東小学校PTA会長。
 沖東夏まつり実行委員会委員長。沖野学園学校支援地域本部協議会副会長。沖野中学校区青少年健全育成連絡協議会副会長。仙台市PTA協議会研修交流委員会委員。若林区まちづくり協議会会員。仙台市立沖野東小学校施設開放管理運営委員会委員長、学校保健委員会副委員長、学校関係者評価委員。沖野中学校区災害対策委員会委員。
沖野東学区民体育振興会参与。沖父ちゃん会(沖野東小おやじの会)顧問。沖野学区連合町内会大運動会実行委員会委員。仙台沖野ソフトボールリーグ顧問。






【経歴】 昭和50年5月10日生まれ。宮城県仙台市若林区出身。41歳。

昭和57年 沖野幼稚園(仙台市若林区)卒園
昭和63年 青森市立筒井小学校卒業
平成3年 仙台市立沖野中学校卒業
平成 6年 宮城県仙台第一高等学校卒業(高46回。二年間応援団長を務める)
平成11年 慶應義塾大学法学部政治学科卒業
     国会議員政策担当秘書資格試験合格

平成12年 参議院議員市川一朗(宮城県選挙区)政策担当秘書
平成13年 慶應義塾大学大学院法学研究科政治学専攻修士課程修了
平成19年 参議院自民党秘書会幹事(平成22年まで)
平成22年 参議院議員市川一朗政策担当秘書を退職

平成23年 経済産業省後援 起業支援ドリームゲートアドバイザー(平成24年まで)
     宮城県議会選挙(若林選挙区)に無所属で出馬

平成24年 林英臣政経塾塾生(東北七期)、大阪維新の会維新政治塾塾生、公益社団法人仙台青年会議所 会員開発委員会委員
平成25年 公益社団法人仙台青年会議所地域共同開発委員会幹事。仙台東倫理法人会幹事(青年委員長)。沖父ちゃん会(沖野東小おやじの会)初代会長
平成26年 東北大学大学院情報科学研究科講師(情報技術経営論・非常勤。現職)。
公益社団法人仙台青年会議所会員開発委員会委員。公益社団法人日本青年会議所憲法論議推進委員会委員。公益社団法人日本青年会議所東北地区宮城ブロック協議会LOM協働委員会委員。

平成27年 宮城県議会議員【仙台市若林選挙区】に初当選。宮城県議会経済商工観光委員会委員、産業振興対策調査特別委員会委員。

公益社団法人仙台青年会議所 総務委員会副委員長。公益社団法人日本青年会議所 日本の未来選択委員会委員。



【渡辺勝幸応援団から、平成28年政治活動についての講評】

【渡辺勝幸応援団から、平成27年政治活動についての講評】

【渡辺勝幸応援団から、平成26年政治活動についての講評】

【渡辺勝幸応援団から、平成25年政治活動についての講評】

【渡辺勝幸の東北大学での講義内容についてはこちらをクリック】

【渡辺勝幸メディア紹介履歴】

渡辺勝幸へのコンタクトはこちらへ

渡辺への感想・ご意見などコンタクトを取りたい方はこちらへお願いいたします。
個別コンサルティングのご感想はこちらです。

【再録】50年後の車社会を戦後間もなく作り上げていた男─石田退三(トヨタ自動車工業社長)その3(終)─昭和時代の私の履歴書

2015年03月03日 18:00

昭和の偉人たちが何を考え、失敗にどう対処し、
それをいかに乗り越え、どんな成功を収めたのか、

日本経済新聞に掲載されている、
自伝コラム「私の履歴書」から
探ってみたいと思います。


私の履歴書─昭和の経営者群像〈8〉


石田退三のお話の続きです。


危機に陥った服部商店はなんとか再興をします。
ここで石田は自分で何か仕事をしてみたくなりました。

そこで考えたのが端切屋。

綿布の二等品、端切れをタダみたいに安く仕入れ、
売買するという小商売。

浅学非才の自分に最も向いた商売だと。


しかし資金がないため、
例によって児玉のところへ五万円貸してくださいとプレゼンをしにいきます。

そこに久しぶりに児玉の雷が落ちたのでした。


「なにをお前はバカなことをいうんだ。
 いったい、いままで何年、商社のメシを食ってきたんか。
 これからは大資本の時代やぜ。

 資本をどんどん大きゅうしていってこそ伸びるが、
 お前のようなそんなチャチな店で一もうけしようと考えるなんて
 知恵の浅いことでどうするんや。」


児玉は、利三郎に話してやるから豊田紡織に行ったらよかろうと、
結局五万円は借りられずに、豊田入りがこの時決まったのでした。


こうして石田が豊田紡織へ入ったのは昭和2年、
38歳のときでした。

独立して商売を始めようと思ったのも、
年齢を考えてのことでしたが、
四十を前にして石田の運命はまた児玉によって大きく回転したのでした。




そう考えてみると、
今の私も37歳。この時の石田と同じぐらいです。

転機を迎えているのかもしれませんね。




石田は入社して大阪出張員となり、
昭和5年にはインドへ行ったりもします。
6年には帰国しますが、本社へ来て何もする仕事がありませんでした。

やがて満州事変、日中戦争となり、
時代の波は大きく動きますが、石田には仕事はありません。

やむを得ず工場のアラ捜しばかりやるようになります。
そのため、工場の技術屋さんが神経衰弱になって
三か月ほど休むというような事件まで起こります。

社長がやってきて、
理屈はわかるが病人まで出る始末では困るので
黙ってもらえまいかと言ってきます。

実際このころ工場の製品コストは一番下がったそうですが。



履歴書には詳しく書かれていませんが、
この十年ぐらいは石田は干されていたのでしょうね。
不遇の時代だったのかもしれません。




しかし昭和16年、急に社長から呼び出され、
自動織機へ行ってくれと。

豊田自動織機の取締役となります。

戦争はどんどん苛烈の様相を強め、
資材さえあれば仕事は何でもやるという状況。

自動車の部品が半分で、
あとは造幣廠の仕事。

大きな砲弾や銃剣けずりなどもやります。


昭和16年から終戦までの四年半は、石田はがむしゃらに仕事をしました。
従業員は多いときで六千人を数えるまでに成長していました。


そして終戦を迎えます。


終戦後、石田は従業員を集めて話します。


「いよいよ大変な事態に立至った。
 これから平和産業に切替えるといっても容易なわざではない。

 この際、従業員諸君もよく自分の進退を考えてもらいたい。
 引きつづき仕事をやろうという人は、一生、カユをすするつもりでいてくれ。
 その覚悟のできない人はこの際、身を引いてもらうより仕方がない。
 それも早いほどいい。
 いまのうちなら、よそで仕事が見つかるだろう。
 さきになったら、それもおぼつかなくなる」


自分と一緒に残る、もうからなければカユをすすって
行けるところまで行くという気持ちで残ったものが1600人いました。

これでうまく減ったと思ったら、
戦災で紡織機がなくなり、
各地から一斉に注文がやってきたのでした。

人事もあわててどんどん人を増やし、
たちまち四千何百人までふくらんだのでした。


そして仕事がやや軌道に乗りかけたころ、
青天の霹靂のごとき財閥指定の声が聞こえてきます。

これではいかんと、
豊田関係の会社を寸断することにします。

これにより、自動織機製作所以外は全部名前が変わります。


車体は刈谷車体、
工機は刈谷工機、
電装は日本電装、
東海飛行機は愛知工業、
紡績は民成紡に。



一通り整備ができ、少しずつ会社が儲かり始めると、
今度はストライキが始まります。

昭和24年、自動織機のストライキが皮切りでした。
この時石田は、自動織機の社長になっていました。

退職金の配分問題で最高は月給の八十か月から百か月分よこせというものでした。
むちゃな要求。

石田は一歩も譲らず、結局基本給の六十か月分ということにします。
もらう方の心情を察すると、
やっぱり少ないだろうなと石田は思います。


「しかし、会社を盛り立てるという立場から、
 私はなんとしても、この点は譲れなかった。」


と石田は述べています。

昭和時代の私の履歴書に登場する人物は、
ほぼ全員がストライキ対応をしていますが、
まずまちがいなく譲歩をしないということ、
そして会社を存続させるためには譲歩できないとの姿勢が明らかでした。

これは時代環境は異なるものの見習うべき点だと私は感じました。

むちゃな要求を受け入れれば、
相手や大衆は大いに喜ぶでしょうが、
会社がつぶれる。

これはどの会社でも同じでしょうし、
政府運営においても同様だと思います。




自動織機は通産局に買い上げ要請、
輸出拡大を図り、着実に利益を上げていきました。

昭和25年になって、トヨタ自動車工業の経営は重大な段階に立至ります。

前年のディスインフレ政策で不振のあおりを食い、
基礎物資の値上がりでコスト高となっていました。

石田は自動車へ陣中見舞いに行き、
ストライキなんかつまらんから早くやめよと組合側を説得、
会長になっていた利三郎氏にも、
はやく事態を収拾せにゃ、自動織機の方もつぶれる。
営々として築き上げてきた自動織機が自動車のあおりでつぶれるようじゃどもならん。
と迫ります。


この言葉から、
当時は自動織機が格上で、
トヨタ自動車は格下だということがよくわかりますね。


そんなある日、会長から呼び出しがかかり、
石田はトヨタ自動車行きを告げられます。

自動織機製作所社長兼任で
自動車工業社長に就任したのでした。

そのときトヨタ自動車工業は、
中央紡績を吸収合併した際の財産まで銀行の抵当に入っていて、
借金を十億円くらい背負っていました。

悲壮な覚悟で石田は乗り込みますが、
社長就任後間もなく天から降ったような朝鮮動乱。

米軍特需景気で、会社も立ち直り、
黒字が出るようになりました。

石田は米軍特需で儲かった金は全部、
設備機械に注ぎ込んで工場の合理化を図ります。

これが進むにしたがい花を開いたのでした。
石田は以下のように述べています。


自動車を始めて私が得た信念は

「金ができたら設備の方へ回せ。
 人間で能率を上げてはいかん。
 機械で能率を上げよ」

ということであった。



この石田の履歴書は昭和33年に書かれたものですが、
非常に興味深い記述がいくつかありました。

そのころの石田は一日も早く国際水準価格に持っていきたい、
国際水準の性能を出したい、そう願っていました。

これからだんだん道もよくなる、
自分のところの車で
都会の街路も、いなか道もあらゆる土地を埋めたい
と願っていました。

しかし、本当は海外にこそ
国産車を走らせる道がいくらもあると考える、
と石田は言っています。

アメリカのはなやかな車が売れる世界ばかりじゃないと述べ、
大型の、しかも極端にいえば豪華な応接間を車内に移したような
ハデなアメリカ車は日本のいなか道なんかで実用になるだろうかと。

アメリカ車の性能や実質価格には学ばなければならないが、
日本独自の創意を盛った実用車をつくれば、
売れるところはいくらでもあると。

フォルクスワーゲンはアメリカでも走っている、
ワーゲンの売れるところで日本の車が売れないはずはない
と石田は考えていたのでした。

当時でも、インドのいなかで道路の完全でないようなところは、
日本の車の方が受けがいいことが分かったのでした。

あまり見栄ばかり張っていてはかえって売りにくいものとなるおそれがある。



この石田の読みは、豊田佐吉の織機の前例があってのことでした。

佐吉翁があれだけ苦労して、

「外国の機械を買わなくとも、
 オレがかならずそれ以上のものをつくってやる」

といって、ついに世界的な織機をつくりあげたこと。

自動車産業は出足が遅かったとはいえ、
日本人の手でもかならず世界的水準を抜くものができると
信ずるのである。

石田はこのように確信していたのでした。



また石田は、
日本ではガソリンの消費が少なくて済むこと、
これが絶対の要請であり、これも目標の一つとして日夜精進していると。

外見だけ立派でも中身はたいして進歩していない。
これが石田の嫌うところでした。





現在、トヨタ自動車は世界有数の自動車会社として知られています。
この石田の文章を読むと、
この五十年のトヨタの軌跡と見事にマッチしているように感じます。

最後のガソリンの話は、
プリウスから電気自動車に移行していますしね。


五十年先の会社経営までも正確に運営する、
そのための見通しをもっていた、
そんな石田はトヨタ自動車の礎を築いた一人といえることでしょう。
















私の履歴書─昭和の経営者群像〈8〉




昭和の高度経済成長を築きあげた経営者たちの私の履歴書。過去の記事はこちらからどうぞ。








(第630号 平成24年6月5日(火)発行)
関連記事




【お願い】つくる仙台のFacebookページにいいね!をいますぐ押してください!

↓ ↓ ↓










コメント

    コメントの投稿

    (コメント編集・削除に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)

    トラックバック

    この記事のトラックバックURL
    http://cuccanet.blog72.fc2.com/tb.php/1734-4fd749f4
    この記事へのトラックバック



    fx