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【再録】50年後の車社会を戦後間もなく作り上げていた男─石田退三(トヨタ自動車工業社長)その3(終)─昭和時代の私の履歴書

昭和の偉人たちが何を考え、失敗にどう対処し、
それをいかに乗り越え、どんな成功を収めたのか、

日本経済新聞に掲載されている、
自伝コラム「私の履歴書」から
探ってみたいと思います。


私の履歴書─昭和の経営者群像〈8〉


石田退三のお話の続きです。


危機に陥った服部商店はなんとか再興をします。
ここで石田は自分で何か仕事をしてみたくなりました。

そこで考えたのが端切屋。

綿布の二等品、端切れをタダみたいに安く仕入れ、
売買するという小商売。

浅学非才の自分に最も向いた商売だと。


しかし資金がないため、
例によって児玉のところへ五万円貸してくださいとプレゼンをしにいきます。

そこに久しぶりに児玉の雷が落ちたのでした。


「なにをお前はバカなことをいうんだ。
 いったい、いままで何年、商社のメシを食ってきたんか。
 これからは大資本の時代やぜ。

 資本をどんどん大きゅうしていってこそ伸びるが、
 お前のようなそんなチャチな店で一もうけしようと考えるなんて
 知恵の浅いことでどうするんや。」


児玉は、利三郎に話してやるから豊田紡織に行ったらよかろうと、
結局五万円は借りられずに、豊田入りがこの時決まったのでした。


こうして石田が豊田紡織へ入ったのは昭和2年、
38歳のときでした。

独立して商売を始めようと思ったのも、
年齢を考えてのことでしたが、
四十を前にして石田の運命はまた児玉によって大きく回転したのでした。




そう考えてみると、
今の私も37歳。この時の石田と同じぐらいです。

転機を迎えているのかもしれませんね。




石田は入社して大阪出張員となり、
昭和5年にはインドへ行ったりもします。
6年には帰国しますが、本社へ来て何もする仕事がありませんでした。

やがて満州事変、日中戦争となり、
時代の波は大きく動きますが、石田には仕事はありません。

やむを得ず工場のアラ捜しばかりやるようになります。
そのため、工場の技術屋さんが神経衰弱になって
三か月ほど休むというような事件まで起こります。

社長がやってきて、
理屈はわかるが病人まで出る始末では困るので
黙ってもらえまいかと言ってきます。

実際このころ工場の製品コストは一番下がったそうですが。



履歴書には詳しく書かれていませんが、
この十年ぐらいは石田は干されていたのでしょうね。
不遇の時代だったのかもしれません。




しかし昭和16年、急に社長から呼び出され、
自動織機へ行ってくれと。

豊田自動織機の取締役となります。

戦争はどんどん苛烈の様相を強め、
資材さえあれば仕事は何でもやるという状況。

自動車の部品が半分で、
あとは造幣廠の仕事。

大きな砲弾や銃剣けずりなどもやります。


昭和16年から終戦までの四年半は、石田はがむしゃらに仕事をしました。
従業員は多いときで六千人を数えるまでに成長していました。


そして終戦を迎えます。


終戦後、石田は従業員を集めて話します。


「いよいよ大変な事態に立至った。
 これから平和産業に切替えるといっても容易なわざではない。

 この際、従業員諸君もよく自分の進退を考えてもらいたい。
 引きつづき仕事をやろうという人は、一生、カユをすするつもりでいてくれ。
 その覚悟のできない人はこの際、身を引いてもらうより仕方がない。
 それも早いほどいい。
 いまのうちなら、よそで仕事が見つかるだろう。
 さきになったら、それもおぼつかなくなる」


自分と一緒に残る、もうからなければカユをすすって
行けるところまで行くという気持ちで残ったものが1600人いました。

これでうまく減ったと思ったら、
戦災で紡織機がなくなり、
各地から一斉に注文がやってきたのでした。

人事もあわててどんどん人を増やし、
たちまち四千何百人までふくらんだのでした。


そして仕事がやや軌道に乗りかけたころ、
青天の霹靂のごとき財閥指定の声が聞こえてきます。

これではいかんと、
豊田関係の会社を寸断することにします。

これにより、自動織機製作所以外は全部名前が変わります。


車体は刈谷車体、
工機は刈谷工機、
電装は日本電装、
東海飛行機は愛知工業、
紡績は民成紡に。



一通り整備ができ、少しずつ会社が儲かり始めると、
今度はストライキが始まります。

昭和24年、自動織機のストライキが皮切りでした。
この時石田は、自動織機の社長になっていました。

退職金の配分問題で最高は月給の八十か月から百か月分よこせというものでした。
むちゃな要求。

石田は一歩も譲らず、結局基本給の六十か月分ということにします。
もらう方の心情を察すると、
やっぱり少ないだろうなと石田は思います。


「しかし、会社を盛り立てるという立場から、
 私はなんとしても、この点は譲れなかった。」


と石田は述べています。

昭和時代の私の履歴書に登場する人物は、
ほぼ全員がストライキ対応をしていますが、
まずまちがいなく譲歩をしないということ、
そして会社を存続させるためには譲歩できないとの姿勢が明らかでした。

これは時代環境は異なるものの見習うべき点だと私は感じました。

むちゃな要求を受け入れれば、
相手や大衆は大いに喜ぶでしょうが、
会社がつぶれる。

これはどの会社でも同じでしょうし、
政府運営においても同様だと思います。




自動織機は通産局に買い上げ要請、
輸出拡大を図り、着実に利益を上げていきました。

昭和25年になって、トヨタ自動車工業の経営は重大な段階に立至ります。

前年のディスインフレ政策で不振のあおりを食い、
基礎物資の値上がりでコスト高となっていました。

石田は自動車へ陣中見舞いに行き、
ストライキなんかつまらんから早くやめよと組合側を説得、
会長になっていた利三郎氏にも、
はやく事態を収拾せにゃ、自動織機の方もつぶれる。
営々として築き上げてきた自動織機が自動車のあおりでつぶれるようじゃどもならん。
と迫ります。


この言葉から、
当時は自動織機が格上で、
トヨタ自動車は格下だということがよくわかりますね。


そんなある日、会長から呼び出しがかかり、
石田はトヨタ自動車行きを告げられます。

自動織機製作所社長兼任で
自動車工業社長に就任したのでした。

そのときトヨタ自動車工業は、
中央紡績を吸収合併した際の財産まで銀行の抵当に入っていて、
借金を十億円くらい背負っていました。

悲壮な覚悟で石田は乗り込みますが、
社長就任後間もなく天から降ったような朝鮮動乱。

米軍特需景気で、会社も立ち直り、
黒字が出るようになりました。

石田は米軍特需で儲かった金は全部、
設備機械に注ぎ込んで工場の合理化を図ります。

これが進むにしたがい花を開いたのでした。
石田は以下のように述べています。


自動車を始めて私が得た信念は

「金ができたら設備の方へ回せ。
 人間で能率を上げてはいかん。
 機械で能率を上げよ」

ということであった。



この石田の履歴書は昭和33年に書かれたものですが、
非常に興味深い記述がいくつかありました。

そのころの石田は一日も早く国際水準価格に持っていきたい、
国際水準の性能を出したい、そう願っていました。

これからだんだん道もよくなる、
自分のところの車で
都会の街路も、いなか道もあらゆる土地を埋めたい
と願っていました。

しかし、本当は海外にこそ
国産車を走らせる道がいくらもあると考える、
と石田は言っています。

アメリカのはなやかな車が売れる世界ばかりじゃないと述べ、
大型の、しかも極端にいえば豪華な応接間を車内に移したような
ハデなアメリカ車は日本のいなか道なんかで実用になるだろうかと。

アメリカ車の性能や実質価格には学ばなければならないが、
日本独自の創意を盛った実用車をつくれば、
売れるところはいくらでもあると。

フォルクスワーゲンはアメリカでも走っている、
ワーゲンの売れるところで日本の車が売れないはずはない
と石田は考えていたのでした。

当時でも、インドのいなかで道路の完全でないようなところは、
日本の車の方が受けがいいことが分かったのでした。

あまり見栄ばかり張っていてはかえって売りにくいものとなるおそれがある。



この石田の読みは、豊田佐吉の織機の前例があってのことでした。

佐吉翁があれだけ苦労して、

「外国の機械を買わなくとも、
 オレがかならずそれ以上のものをつくってやる」

といって、ついに世界的な織機をつくりあげたこと。

自動車産業は出足が遅かったとはいえ、
日本人の手でもかならず世界的水準を抜くものができると
信ずるのである。

石田はこのように確信していたのでした。



また石田は、
日本ではガソリンの消費が少なくて済むこと、
これが絶対の要請であり、これも目標の一つとして日夜精進していると。

外見だけ立派でも中身はたいして進歩していない。
これが石田の嫌うところでした。





現在、トヨタ自動車は世界有数の自動車会社として知られています。
この石田の文章を読むと、
この五十年のトヨタの軌跡と見事にマッチしているように感じます。

最後のガソリンの話は、
プリウスから電気自動車に移行していますしね。


五十年先の会社経営までも正確に運営する、
そのための見通しをもっていた、
そんな石田はトヨタ自動車の礎を築いた一人といえることでしょう。
















私の履歴書─昭和の経営者群像〈8〉




昭和の高度経済成長を築きあげた経営者たちの私の履歴書。過去の記事はこちらからどうぞ。








(第630号 平成24年6月5日(火)発行)
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