【再録】鹿島守之助 事業成功の秘訣20カ条 - つくる!宮城県議会議員渡辺勝幸のブログ【仙台市若林区】

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渡辺勝幸について

【現職】
宮城県議会議員【仙台市若林区選出】
 宮城県議会 保健福祉委員会委員。
 宮城県議会 地域防災調査特別委員会委員。
 宮城県議会 議会改革推進会議委員。
 宮城県議会 政務活動費運用検討会議 検討委員。
 宮城県議会 決算特別委員会理事。

自由民主党・県民会議
 事務局次長。
 医療・福祉議員連盟 事務局次長。
 環境・エネルギー議員連盟 事務局次長。
 芸術文化議員連盟 事務局次長。
 防災議員連盟 事務局次長。
 日越(ベトナム)交流宮城県議会議員連盟 事務局次長。
 観光・情報議員連盟 事務局次長。
宮城県議会全国和牛能力共進会宮城大会を支援する議員連盟 副幹事長。
北朝鮮に拉致された日本人を救出し支援する宮城県議の会 事務局長。
宮城県議会国際リニアコライダーの誘致議員連盟 事務局長。
神道政治連盟宮城県本部議員連絡協議会 幹事。

自由民主党宮城県支部連合会
 県民運動本部 副本部長。
 憲法改正推進本部 事務局長。
 女性活躍推進本部 副本部長。
 青年局 局長代理。

仙石線整備促進期成同盟会 顧問。
全日本不動産政治連盟宮城県本部 顧問。
宮城県理容生活衛生同業組合 仙台若林支部 顧問。
宮城県私立幼稚園PTA連合会 常任委員長。
宮城県障害者スポーツ指導者協議会 副会長。
仙台市南地区交通安全協会六郷支部 顧問。
社会福祉法人ウェル千寿会 評議員。
宮城県薬剤師連盟 政策強化委員。

東北大学大学院情報科学研究科 非常勤講師(情報技術経営論)。
起業集団「株式会社つくる仙台」代表取締役。
ミラサポ(中小企業庁委託中小企業支援事業)専門家。
仙台東倫理法人会 監査。

仙台市立沖野東小学校PTA会長。
 沖東夏まつり実行委員会委員長。沖野学園学校支援地域本部協議会副会長。沖野中学校区青少年健全育成連絡協議会副会長。仙台市PTA協議会研修交流委員会委員。若林区まちづくり協議会会員。仙台市立沖野東小学校施設開放管理運営委員会委員長、学校保健委員会副委員長、学校関係者評価委員。沖野中学校区災害対策委員会委員。
沖野東学区民体育振興会参与。沖父ちゃん会(沖野東小おやじの会)顧問。沖野学区連合町内会大運動会実行委員会委員。仙台沖野ソフトボールリーグ顧問。






【経歴】 昭和50年5月10日生まれ。宮城県仙台市若林区出身。41歳。

昭和57年 沖野幼稚園(仙台市若林区)卒園
昭和63年 青森市立筒井小学校卒業
平成3年 仙台市立沖野中学校卒業
平成 6年 宮城県仙台第一高等学校卒業(高46回。二年間応援団長を務める)
平成11年 慶應義塾大学法学部政治学科卒業
     国会議員政策担当秘書資格試験合格

平成12年 参議院議員市川一朗(宮城県選挙区)政策担当秘書
平成13年 慶應義塾大学大学院法学研究科政治学専攻修士課程修了
平成19年 参議院自民党秘書会幹事(平成22年まで)
平成22年 参議院議員市川一朗政策担当秘書を退職

平成23年 経済産業省後援 起業支援ドリームゲートアドバイザー(平成24年まで)
     宮城県議会選挙(若林選挙区)に無所属で出馬

平成24年 林英臣政経塾塾生(東北七期)、大阪維新の会維新政治塾塾生、公益社団法人仙台青年会議所 会員開発委員会委員
平成25年 公益社団法人仙台青年会議所地域共同開発委員会幹事。仙台東倫理法人会幹事(青年委員長)。沖父ちゃん会(沖野東小おやじの会)初代会長
平成26年 東北大学大学院情報科学研究科講師(情報技術経営論・非常勤。現職)。
公益社団法人仙台青年会議所会員開発委員会委員。公益社団法人日本青年会議所憲法論議推進委員会委員。公益社団法人日本青年会議所東北地区宮城ブロック協議会LOM協働委員会委員。

平成27年 宮城県議会議員【仙台市若林選挙区】に初当選。宮城県議会経済商工観光委員会委員、産業振興対策調査特別委員会委員。

公益社団法人仙台青年会議所 総務委員会副委員長。公益社団法人日本青年会議所 日本の未来選択委員会委員。



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【再録】鹿島守之助 事業成功の秘訣20カ条

2014年10月14日 18:00

昭和の偉人たちが何を考え、失敗にどう対処し、
それをいかに乗り越え、どんな成功を収めたのか、

日本経済新聞に掲載されている、
自伝コラム「私の履歴書」から
探ってみたいと思います。


私の履歴書─昭和の経営者群像〈2〉


鹿島守之助の話の続きです。

ドイツに3年2カ月駐在ののち、
大正14年7月に守之助は日本に帰ります。

守之助のドイツからの報告は課長から高く評価され、
省内でパンフレットにして配布されるほどでした。

そこで帰朝後は、神川彦松東大教授とともに、
外交史料の編纂にあたり、

「世界大戦原因の研究」を書きあげ、東大から法学博士の学位を得ました。


このころから、船旅で出会った、
鹿島組の永淵重役が外務省にしばしば来るようになります。

しばらくすると夫人同伴で訪ねてくるようになり、
縁談をもってきました。

最初は、養子だというので相手にしていなかった守之助でしたが、
永淵は断っても平気の様子でよもやまの話をしてはかえっていく。

守之助は鹿島精一を信頼できる人だと思っていたそうです。
生活のあり方が親切でかつ合理的で、
実父同様、人から悪口を言われたことのない人だったと。

このような人の娘との結婚ならと、
実は最初から引きつけられるものがあったと回想しています。


令嬢は、父親の持ってきた縁談は皆はねつけて、
そのため父親の頭は白くなったというので、
永淵は非常に心配していたとのこと。

なかなかおもしろい御令嬢ですね。

しかし、守之助がベルリンから鹿島精一に送った
「欧米の現勢とその将来」「汎アジア運動と汎ヨーロッパ運動」
を御令嬢がなぜか読んでいて、
守之助に特別の関心があった様子。

守之助もご令嬢について調べたところ、

「哲学者である」

と書いてあったのだとか。

哲学書を研究しているという意味ではなく、



「あまり小さいことにこせこせしないで
大局的に問題をきちっとつかんで処理している」



とのこと。

政治でも事業でもこの「哲学的把握」は大事だが、
こりゃ大したものだと守之助は感じたそうです。


昭和2年2月24日、
守之助は、鹿島卯女と帝国ホテルで結婚式を挙げます。

そして新婚旅行方々、イタリア大使館に赴任となり、
政情調査と報告に勤しみます。

しかし守之助は昭和4年の国際連盟総会に感激し、
自分自ら汎アジア運動をやらなければならない、
と決意。

昭和5年1月15日に帰朝、衆議院選挙に出馬します。
1月21日に解散となりました。


神戸から郷里の県会議員二人が上京してきます。

二人は口をそろえて

「他の相手は前から準備しているので、あなたは立ちおくれている。

宍粟郡の山奥に一万票が残っているだけで、一票三円だがそれを買わなければ当選できない」

と言ったのだそうです。

しかし守之助は、
違反事件をおこし迷惑をかけてはいけないと、
汎アジアを第一綱領に掲げて中立で立候補しましたが、

開票の結果、票は予想外に少なく見事落選してしまいます。

姫路の警察署長から
「鹿島さんの選挙には票の買収が全然なかった」と
ほめられたものの、

その後しばらく別荘にたてこもって
学位論文の執筆やその他の研究に没頭したのだそうです。


選挙からしばらくたち昭和11年、
鹿島建設の重役たちから事業を見習ってほしいという話があり、

守之助は鹿島建設社長に就任しました。

当時の鹿島組は、先々代の積極政策の後を受け、
先代が堅実政策を取り、業界にゆるぎない信望をもたらしてはいたものの、
時代もあったのでしょう、大きな転換期に差し掛かっていました。

そこで守之助は、土建事業と会社経営に関する書物を
日本だけでなく、欧米各国からも集め、
また専門家からの意見も聞きました。

その当時作ったのが、有名な「事業成功の秘訣20カ条」です。




鹿島守之助 事業成功の秘訣20カ条

第1条 「旧来の方法が一番いい」という考えを捨てよ。

第2条 絶えず改良を試みよできないといわずにやってみよ。

第3条 有能な指導者をつくれ。

第4条 人をつくらぬ事業は亡ぶ。

第5条 どうするかを研究せよ。

第6条 本を読む時間をもて。

第7条 給料は高くせよ。

第8条 よく働かせる人たれ。

第9条 賞罰を明らかにせよ。

第10条 なるべく機械を使うこと。

第11条 部下の協力一致を計れ。

第12条 事業は大きさよりも釣り合いが肝心。

第13条 なによりもまず計画。

第14条 新しい考え、新しい方法の採用を怠るな。

第15条 一人よがりは事を損ず。

第16条 イエスマンに取り巻かるるなかれ。

第17条 欠陥は改良せよ。

第18条 人をうらまず突進せよ。

第19条 ムダを見付ける目をもて。

第20条 仕事を道楽とせよ。




一貫する思想は、「進歩改良」。
守之助の事業観でもあり人生観でした。

なかなか身にしみる20条です。


またマーケットリサーチを重視し、その結果、
これまでの鉄道工事偏重から
時代の産業である建築および電力工事へ積極的に進出していきます。

会社もきわめて順調に発展していったところ、

昭和17年4月に衆院選が行われることになりました。
いわゆる翼賛選挙です。

たまたま守之助は、
芦田均が社長をしていたジャパン・タイムスの取締役をしていたために、
自由主義者に相違なかろうということで、
なかなか推薦候補になれなかったようです。

定員四名の兵庫4区は、つわものの4人がそれぞれ地盤をもっていて、
誰が見ても無理な選挙でした。

前回同様きれいな選挙をやったところ、
意外に票が集まって次点ながら当選者との差は八百票ほどだったそうです。


7月には、大政翼賛会調査局長に就任。
戦争目的達成のため、調査会の運営をするのがその目的。

たくさんの人々を集めて調査研究をやってもらったそうですが、
海外に比べて、日本では国会も官庁も民間も
調査にかける金がけた違いに少なく、
調査も底が浅く、行き当たりばったり式が多かったとのこと。

国策の基本となる調査研究にはもっと力を注ぐべきだとの指摘は、
いまでも言えることではないかと感じました。



一方、終戦後守之助は、日本で初めてのジョイント・ベンチュアを
米軍の工事で開始します。

いまでこそJVはどこでも当たり前のようにやっていますが、
当時は画期的で、守之助の功績は大きいと思います。

JVの効用について守之助は、

1、融資力の増大
2、危険の分散
3、技術の拡充強化と経験の増大
4、見積もりのチェック
5、工事施工の確実性
6、投資の工事入手の機会の供与


などをあげています。





昭和26年8月に、守之助は公職追放解除になり、
兵庫4区では有力な議員から
次の衆院選に出るならひいてもよいとの申し出があったそうですが、

いまさら衆議院の一年生から始めるのもどうか、
むしろ参議院で冷静な批判を主とした政治の方が守之助にふさわしい
とすすめる人が多く、

昭和28年4月参院選全国区に立候補、当選します。


そして昭和32年4月、北海道開発庁長官に就任。
大臣に就任して、鹿島建設社長をはじめ関連の職をすべて辞します。

就任後前例がなかったことでしたが、
鹿島建設に対する北海道開発局関係の請負工事の指名停止を命令します。

守之助が大臣を辞めたとき、一番喜んだのは
鹿島建設の札幌支店長だったのだとか。




守之助は、文学青年であり、外交官であり、
研究者であり、事業家であり、政治家でした。

日本のゲーテのような生き方をしたと言ってもいいかもしれません。


そしてどの分野においても優れた業績をあげていますが、
読みながら思ったのは、

研究者として人生をすべて生き抜いていたら
またちがった人生だったのではないかなと思いました。

人生はむずかしい。




私の履歴書─昭和の経営者群像〈2〉
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