【再録】母の愛情、そして父に憧れ船乗りになる─井植歳男(三洋電機社長)その1─昭和時代の私の履歴書 - つくる!宮城県議会議員渡辺勝幸のブログ【仙台市若林区】

挑戦!クラウドファンディングにご協力をお願いします!

渡辺勝幸について

【現職】
宮城県議会議員【仙台市若林区選出】
 宮城県議会 保健福祉委員会委員。
 宮城県議会 地域防災調査特別委員会委員。
 宮城県議会 議会改革推進会議委員。
 宮城県議会 政務活動費運用検討会議 検討委員。
 宮城県議会 決算特別委員会理事。

自由民主党・県民会議
 事務局次長。
 医療・福祉議員連盟 事務局次長。
 環境・エネルギー議員連盟 事務局次長。
 芸術文化議員連盟 事務局次長。
 防災議員連盟 事務局次長。
 日越(ベトナム)交流宮城県議会議員連盟 事務局次長。
 観光・情報議員連盟 事務局次長。
宮城県議会全国和牛能力共進会宮城大会を支援する議員連盟 副幹事長。
北朝鮮に拉致された日本人を救出し支援する宮城県議の会 事務局長。
宮城県議会国際リニアコライダーの誘致議員連盟 事務局長。
神道政治連盟宮城県本部議員連絡協議会 幹事。

自由民主党宮城県支部連合会
 県民運動本部 副本部長。
 憲法改正推進本部 事務局長。
 女性活躍推進本部 副本部長。
 青年局 局長代理。

仙石線整備促進期成同盟会 顧問。
全日本不動産政治連盟宮城県本部 顧問。
宮城県理容生活衛生同業組合 仙台若林支部 顧問。
宮城県私立幼稚園PTA連合会 常任委員長。
宮城県障害者スポーツ指導者協議会 副会長。
仙台市南地区交通安全協会六郷支部 顧問。
社会福祉法人ウェル千寿会 評議員。
宮城県薬剤師連盟 政策強化委員。

東北大学大学院情報科学研究科 非常勤講師(情報技術経営論)。
起業集団「株式会社つくる仙台」代表取締役。
ミラサポ(中小企業庁委託中小企業支援事業)専門家。
仙台東倫理法人会 監査。

仙台市立沖野東小学校PTA会長。
 沖東夏まつり実行委員会委員長。沖野学園学校支援地域本部協議会副会長。沖野中学校区青少年健全育成連絡協議会副会長。仙台市PTA協議会研修交流委員会委員。若林区まちづくり協議会会員。仙台市立沖野東小学校施設開放管理運営委員会委員長、学校保健委員会副委員長、学校関係者評価委員。沖野中学校区災害対策委員会委員。
沖野東学区民体育振興会参与。沖父ちゃん会(沖野東小おやじの会)顧問。沖野学区連合町内会大運動会実行委員会委員。仙台沖野ソフトボールリーグ顧問。






【経歴】 昭和50年5月10日生まれ。宮城県仙台市若林区出身。41歳。

昭和57年 沖野幼稚園(仙台市若林区)卒園
昭和63年 青森市立筒井小学校卒業
平成3年 仙台市立沖野中学校卒業
平成 6年 宮城県仙台第一高等学校卒業(高46回。二年間応援団長を務める)
平成11年 慶應義塾大学法学部政治学科卒業
     国会議員政策担当秘書資格試験合格

平成12年 参議院議員市川一朗(宮城県選挙区)政策担当秘書
平成13年 慶應義塾大学大学院法学研究科政治学専攻修士課程修了
平成19年 参議院自民党秘書会幹事(平成22年まで)
平成22年 参議院議員市川一朗政策担当秘書を退職

平成23年 経済産業省後援 起業支援ドリームゲートアドバイザー(平成24年まで)
     宮城県議会選挙(若林選挙区)に無所属で出馬

平成24年 林英臣政経塾塾生(東北七期)、大阪維新の会維新政治塾塾生、公益社団法人仙台青年会議所 会員開発委員会委員
平成25年 公益社団法人仙台青年会議所地域共同開発委員会幹事。仙台東倫理法人会幹事(青年委員長)。沖父ちゃん会(沖野東小おやじの会)初代会長
平成26年 東北大学大学院情報科学研究科講師(情報技術経営論・非常勤。現職)。
公益社団法人仙台青年会議所会員開発委員会委員。公益社団法人日本青年会議所憲法論議推進委員会委員。公益社団法人日本青年会議所東北地区宮城ブロック協議会LOM協働委員会委員。

平成27年 宮城県議会議員【仙台市若林選挙区】に初当選。宮城県議会経済商工観光委員会委員、産業振興対策調査特別委員会委員。

公益社団法人仙台青年会議所 総務委員会副委員長。公益社団法人日本青年会議所 日本の未来選択委員会委員。



【渡辺勝幸応援団から、平成28年政治活動についての講評】

【渡辺勝幸応援団から、平成27年政治活動についての講評】

【渡辺勝幸応援団から、平成26年政治活動についての講評】

【渡辺勝幸応援団から、平成25年政治活動についての講評】

【渡辺勝幸の東北大学での講義内容についてはこちらをクリック】

【渡辺勝幸メディア紹介履歴】

渡辺勝幸へのコンタクトはこちらへ

渡辺への感想・ご意見などコンタクトを取りたい方はこちらへお願いいたします。
個別コンサルティングのご感想はこちらです。

【再録】母の愛情、そして父に憧れ船乗りになる─井植歳男(三洋電機社長)その1─昭和時代の私の履歴書

2014年04月22日 18:00

昭和の偉人たちが何を考え、失敗にどう対処し、
それをいかに乗り越え、どんな成功を収めたのか、

日本経済新聞に掲載されている、
自伝コラム「私の履歴書」から
探ってみたいと思います。



私の履歴書─昭和の経営者群像〈9〉



井植歳男(いうえ としお、1902年12月28日 - 1969年7月16日)は、日本の実業家。
三洋電機株式会社の創業者。
松下電気器具製作所(松下電器産業を経て、現・パナソニック)の創業メンバーで、元専務取締役。


明治35年兵庫県生まれ。
大正6年松下入り。
昭和22年三洋電機製作所創設。
25年三洋電機設立、社長。
低価格ラジオ、電気洗濯機を発売し家庭電化を促進。
43年会長、「井植学校」で若手を育成。
44年7月16日死去。


この私の履歴書は、昭和38年3月に連載している。


この履歴書の冒頭、
井植は母との思い出から書き始めています。

母からことごとく学んだ、
この自分の半世紀を母に語るつもりでつづってみようとしています。



井植の記憶に残っている、一番はじめての母の顔は、
汗と涙でクシャクシャにゆがんでいました。

井植が4歳の時、
おじの船が進水したときのことでした。

氏神に参拝した後、船の上で儀式が始まります。

若者たちが、互いに海に投げ込まれるのを見て、
幼い井植ははしゃぎまわっていました。

そのとき、

突風が吹いて、
井植は船もろともに海中に叩き込まれたのでした。

帆の下敷きになり、気絶していた井植の体を、
母はたき火であたためながら、かれこれ30分も人工呼吸を施します。

井植が息を吹き返したとき、
そこに母の大きな汗と涙の顔があったのでした。



またある時、弟の祐郎(のちの三洋電機副社長)が20歳の時、
担当している経理の仕事を代わりたいと言い出します。

それを無理に続けさせていたところ、
家出してしまったことがありました。

当時は大阪市福島に住んでいましたが、
母は浦江の聖天さまへ願をかけ、毎日、一心に祈り続けます。

そして20日目、

「ちょっと淡路へ帰ってくる。ユウが家出したのはワシの責任じゃ。
 ご先祖に申しわけがないさかい、いなかで身のふり方をゆっくり考えてくるつもりや」

と止めるのも聞かず、小さなふろしき包みを持ったきり出て行ってしまいます。

ところが二日後、
母はえびす顔で帰ってきます。

「ユウに会うてきたよ」

「えっ? 祐郎に・・・」

母は神のお告げを聞き、ひそかに東京へ行ったのでした。
東京の南西というだけのたよりないお告げを信じ品川で降りると、
周辺の旅館を片っぱしからさがしたのだといいます。

母の深い愛情に、井植はただただ頭を下げるしか他ありませんでした。



また、戦後、井植が事業を始めて間もなく、
資金源と頼む工場が丸焼けになったことがありました。

所用で上京していた井植が、
急ぎ焼け跡にかけつけたとき、
こともあろうにニヤニヤ笑いながら井植の肩をたたいたのが母でした。


「トシオ、そう気ィ落とすことないぜ。
 人生には焼け太りちゅうこともあるやおまへんか。
 ナ、しっかりやんなはれ」


母の笑顔はどんな大金を積んでくれたよりも、
うれしく、井植を励ましたのでした。


「どんなときでも、相手の立場をまず考えよう。
 相手の便利、経済、楽しみ、よろこび、そして繁栄が第一だ。

 それを自分の事業に結びつけてこそ自分の幸福が得られるのだ」


という井植のものの見方、考え方、行い方は、
ことごとく、この母から学んだと述べています。






井植の郷里は兵庫県の淡路島でした。

空気は澄み気候温暖で、
米、くだもの、魚、どれもがおいしく、
風光明媚なところです。

代々自作農の農家に井植は生まれました。


しかし、井植の父清太郎は農業をきらい、船に乗っていました。
大阪、九州、朝鮮あたりまで出かけて自家貿易をしていたようです。

近くの港から高田屋嘉兵衛が出ています。
父も進取の気性に富む、剛直な人であったようです。


井植の上は女の子ばかり4人続いていました。


明治35年12月28日、
井植歳男は生まれました。

父は、待望の男子ができてよほどうれしかったと見え、
誕生の日がめぐってくるとヨチヨチ歩きの井植の背に鏡もちをくくりつけ、
みずから隣近所へ祝いものを配って歩きます。

また五人の大工に命じて、
おもちゃ代わりに模型の大きな船を作ってくれたりもします。

このころが父の全盛時代だったようです。


船から帰るときは紋付きはかまにかばんといういでたち。

母はよく「あの中にはお金がいっぱいはいっとるのに、家へは少しも入れん。ゆだんできん人や」とこぼします。


小学校へ入ると、父は急に厳しくなります。
たとえば子牛をあてがい、その飼育を命じるかと思うと、
家で使うたきぎはすべて井植の責任で採取させます。
少しでも怠けると容赦なく折檻されました。

小学校の先生も親類仲間で自然と、
井植はわんぱくの限りをつくします。


小学校2年生のとき、
習字の時間、井植は級友たちのすずりに水を注いでまわる当番を言いつけられました。

しかし思案の末、自らの「黄金の水」で代用してしまいます。

悪事はたちまち文字通りかぎつけられ、
例によって廊下に立たされることになりました。



晩年の父は目を患い、船を若い者に任せて元の農業に戻っていましたが、
井植が高等科1年の春、あっけなく、この世を去っていきました。

亡くなる前日、父は、母と井植を枕元に呼びました。

「学校へ行きたい子供には、希望通りにしてやれ。
 その場合はこの山を最初に売れ。
 田はこういう順序で処分したらええ。
 トシオ、お前はおふくろを大事にしてやってや。」

8人兄弟でしたが、
母は経済家で、祖父母、曾祖父母につかえ、夫の留守を守りながら、
8人の子どもを育て、父が亡くなっても財産を減らすようなことは絶対にしませんでした。


井植は父の遺言に反して、学校は懲りていたので、
父と同じように船に憧れます。

当時は、海だけが世界に通じる道であり、
その仕事に従事することは、海国男子の本懐であると教えられていました。

井植は船乗りになりたいと、
おじの船が帰ってくるとすぐさま向かいます。

相談というよりも哀願に近いものでした。


大正6年2月、おじの船に乗り込み、
見習いとなります。


母は何も言いませんでした。

港へも来てくれませんでした。


船が沖へ消えてしまうのを見とどけると、
母は、わが家へかけ込み奥の間で大声をあげて泣いたのでした。

弟たちが大阪へ出るときも、
母は決まってそうしていたのでした。


のちに長姉からこの話を聞き母の複雑な気持ちを、初めて知ったのでした。



船乗りの仕事はさすがに楽ではありませんでした。
船長以下4人しか乗っておらず、見習いということで、

飯炊き、船洗い、帆まき、錨あげ、荷の上げ下ろしと
なにもかもやらされました。


食事もまずく、栄養も偏っていました。


「板子一枚底地獄」

という形容そのままの生活が続き、
井植は次第に鍛えられていきました。


どんな苦しみもしんぼうさえすれば克服することができるという強い信念を、
井植はこのときに植えつけられたのでした。


そして5月になります。


いくつもの航海を経験し、
苦しみはいくらかやわらぎ始めていました。

ある日いつものように船は安治川をのぼっていきました。

西九条の芦分橋のそばにある石灰工場の下に船をつけました。


そのとき、
耳をつんざくような轟音が響き渡ります。

続けざまに二つ、三つ。


一瞬、火柱が立ち、
大きなコンクリートの塊が次々に飛び上ります。

身の危険を感じた井植は、とっさに川へ飛び込みました。

夢中で岸に泳ぎ着いてみると、
井植の乗っていた船は見る影もありませんでした。

三菱の東京倉庫の爆発で、
三百数十の死傷者を出したという大事故だったのでした。


ひとまず淡路へ引き揚げます。

母はホッとした様子でしたが、
しばらく見ない間に櫛あとに白いものが混じっているのを見つけます。


母に心配をかけてはいけない。


井植は船をあきらめる決心をしました。


船乗りは華やかですが、極道に通じる。
母も井植の決心を喜んでくれたのでした。



そして大正6年5月ごろに、
大阪で電灯会社に勤めていた義兄の松下幸之助が会社を辞める決心をし、
自立の準備をしていました。

そして6月に、井植にも出てこないかという誘いが来ます。


ここから井植歳男の新しい人生がはじまります。


続きはまた来週に。




私の履歴書─昭和の経営者群像〈9〉




昭和の高度経済成長を築きあげた経営者たちの私の履歴書。
過去の記事はこちらからどうぞ。









(第931号 平成25年4月2日(火)発行)
関連記事




【お願い】つくる仙台のFacebookページにいいね!をいますぐ押してください!

↓ ↓ ↓










コメント

    コメントの投稿

    (コメント編集・削除に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)

    トラックバック

    この記事のトラックバックURL
    http://cuccanet.blog72.fc2.com/tb.php/1424-3ab8c514
    この記事へのトラックバック



    fx