理事長就任当時、すでに資金量は百億円台に乗せ、
第二次五カ年計画の目標三百億円に向かって進んでいるときでした。
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【引用ここから】
私は金融機関にも、一つのフシというものがあると考えている。
百億から五百億、
五百億から一千億、
そして現在は二千億を突破しているが、
ただ資金だけをふやせばそれでいいというものではない。
百億時代には、従業員も百億の目しか持てない。
その伸びとともに経営者はもちろん従業員もそれなりの目、感覚を持ってくれないと
次の三千億、五千億には挑戦できないものだ。
【引用ここから】
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この感覚は確かに重要ですね。
そしてこの感覚を小原が得られたのは、
昭和33年にアメリカ視察をしたことも大きかったようです。
帰国後小原は、自動車ゲタ論と合議制を採用します。
アメリカに渡るまで、
小原は自動車をぜいたく品だと思っていました。
しかしアメリカでは自動車をゲタみたいに使っていました。
なるほど、自動車があれば、と、
自動車の使い方を教えられました。
帰国後すぐさま自動車を支店に手配するように命じます。
また城南は、事業量が増加するのにともない、
いくつかの欠点が目につきはじめていました。
部下を信用する──こうした姿勢から、
小原は机の上からハンコを追放します。
権限の下部委譲、この考え方が小原が一貫して続けている姿勢でした。
昭和41年、コンピューターの導入も、
若い職員で構成された委員会の成果でした。
「金融機関は、元金はいらない、人間がモトデである」
という姿勢でいた小原でした。
そして小原には子供がいませんでしたが、
職員全部を自分の子供だと思っていました。
入職したての“子ども”たちには、
親の立場で、仕事の仕方、エチケットを説き、
またミスを犯しても、必ず、
「もし私がこの子の親だったら、どうする……」
と反問して、対処していたのでした。
昭和38年5月、小原は「全国信用金庫連合会会長」に就任しました。
出資金はわずか6億円でしたが、
小原は「出資金を50億にふやすべし」と言い渡し、
「資金量を三千億、五千億にすれば、チリがつもっただけでも相当な金額だ。
出資金を五十億にしても、このチリでじゅうぶん食える」
小原の大きな計画に、皆びっくりします。
次に打ち出したモノは、
地方事務所の大型化でした。
地方事務所のほとんどが五十坪。
地区代表としての権威感も、信頼感も生まれてこようはずがない。
二百坪以下は落第。
大都市には信用金庫会館と名付けた大ビルを完成、
このような形で門戸を張っていれば、勢い、
各地の信用金庫の人々も活発に出入りするようになるし、
それがまた預金にもつながってくると小原はみていたのでいた。
少年時代、内閣総理大臣になるつもりでしたが、
その志を捨てたのは、
政治家というものは、白を黒、黒を白とウソの言える人間でないと大成することはできないと知らされたからでした。
小原はまっ正直にしかものの言えない性格でした。
小原が「金庫」の仕事をやっていくうえで、信条としていることが三つありました。
1、直接、政治に関係しない
2、他の事業会社の重役にならない
3、個人の金を貸さないただ一つ例外が、「杉の子」会の会長でした。
信用金庫人として、中小企業の真の育成をはかるには、
ただ金を貸したり、預かったりするだけでなく、
そこに働く若者の人づくりこそたいせつだろうと、
“日本一のすし屋”“日本一のそば屋”“日本一の女房”になろうという
独立の精神と勤勉な貯蓄心を持っている若者には、
信用金庫が資金面でもめんどうみようと、
第二、第三の「松下幸之助」が現れると信じてやっていたのでした。
最後に、小原は「健康法」について書いています。
その健康法は、
「心に残るような意地の悪いことをしない」ことだと答えています。
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【引用ここから】
今日の世の中はともすると権謀術数の時代、
奇略に謀略をもってするのが一つの風潮となっているが、
私は奇略に勝つものは、誠実だと思っている。
誠実をもって当たるならば、なにも良心をとがめるものはない。
【引用ここまで】
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小原の履歴書は、
わが国中小企業金融の歴史でもあります。
中小企業支援をどんな精神でもって進めていくべきか、
この答えが小原の人生にあるように感じます。
そしてその答えこそが、
わが国経済再生の大きなカギとなるのではないか、
そう思いました。
私の履歴書─昭和の経営者群像〈9〉昭和の高度経済成長を築きあげた経営者たちの私の履歴書。
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