九州の電気・交通をまとめ、衆議院議員に─松永安左エ門(電力中央研究所理事長)その7─昭和時代の私の履歴書 - つくる!宮城県議会議員渡辺勝幸のブログ【仙台市若林区】
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九州の電気・交通をまとめ、衆議院議員に─松永安左エ門(電力中央研究所理事長)その7─昭和時代の私の履歴書

2013年09月24日 18:00

昭和の偉人たちが何を考え、失敗にどう対処し、
それをいかに乗り越え、どんな成功を収めたのか、

日本経済新聞に掲載されている、
自伝コラム「私の履歴書」から
探ってみたいと思います。



私の履歴書─昭和の経営者群像〈9〉



松永は、大阪市電路線の敷設に絡み、
投獄の憂き目にあってしまいました。

しかし、その活動意欲が衰えることはありませんでした。


松永の功績の一つに、
北九州の電気、交通両業を一つにしたということが挙げられます。


────────────────────────────
【引用ここから】


どんな事業にもいえることだが、
特に電気、交通などサービスを提供する事業は

“合理的な体制で、最も経済的に”

運営することが課題である。

独占を伴うし、また先行投資となる必要の事業であるからだが、
そのために、企業はできるだけ集中した形で、大きく経営する必要がある

──こう考えていた私は、
すくなくとも北九州の電気、交通両業は、
さっそくにも一つにまとめてみたいと思って博多にきたのであった。


【引用ここまで】
────────────────────────────


その第一着手が、
九州電気を設立して広滝水力電気を吸収合併したことでした。

広滝水力は、明治39年に
福岡、佐賀両県に電灯電力を供給する目的で、
牟田万次郎、太田清蔵らと松永が加わって設立した会社でした。

当初は佐賀県下のみの許可を得たにすぎませんでしたが、
北九州では有数の川上川の水利権を獲得し、
将来大きく発展することが期待できるようになっていました。


そこで松永が発起人代表となって、
九州電気を設立し、広滝水力を吸収合併し、
松永が常務に就任して実際の指揮に当たったのでした。

福博電軌、博多電灯、広滝水力の三社合併を最初から計画したのですが、
水力と火力の優劣、地方色が絡んで、実現せず、

まず博多電灯、福博電軌の合同が先行したのでした。

しかし、この九州電気ができたことで、事態は前進します。

一種緩衝の役割を果たして、
当初の目標通り、
博多電灯軌道と合併し、東邦電力になるまで、十年余続いた九州電気鉄道が生まれたのは、
明治45年6月のことでした。

九州電気には監査役として野村徳七がいました。
野村は7万5千円という、当時としてはかなりの社債を調達してくれた関係で、
松永が推薦し監査役となりました。

野村は大阪で独立して間もないころのこと、
松永の三つ下、当時33,4歳のころ。

後年野村は銀行を興し、
さらに証券会社を作り、
生命保険にも手を伸ばし、
一流の財界人となりますが、
第二次大戦の終戦を見ず、68歳で逝去するまで松永と長い交際を重ねました。


いまの野村證券ですね。


九州電気鉄道の誕生は、
北九州にとっても、松永たちにとっても画期的なことでした。

福岡、佐賀、長崎に地域が広がり、
この会社を基盤にして地方の小電灯会社を吸収したり、
ときには新設することができました。

福岡、佐世保、熊本、鹿児島、長崎などで
ガス事業を行い、のちに西部合同瓦斯にまとめえたのも、
九電鉄の力があったればこそでした。


企業の膨張、拡大で水火の併用、送配電線の合理化、
新しい技術の採用などができて、

この間でも数度にわたる電灯料金の値下げができ、
急増しつつあった電力供給に応じることができました。

試験によって大学卒を採用する制度を始めたのは、博多電灯軌道のころからで、
のちに中部電力の会長になった海東要造は第一回の試験採用組でした。


九州電気鉄道─九電鉄の発足で、第二段階に入ります。

本社を福岡にすることに佐賀系の反対がありましたが、
佐賀出身の伊丹弥太郎(のちに関西電力、東邦電力社長)を社長に推して妥協を図ります。

しかしさらに問題となったのは、
安川敬一郎、麻生太吉、堀三太郎といった地元の有力者連が
博多電灯軌道と九州電気の合併に反対したことでした。

反対派は連合して積極的に博多電灯軌道の株を買いあさり、
松永たちも対抗上、千代田生命に依頼して株を買ってもらいます。

しかし結局反対派連合軍もあきらめ、
九電鉄は発足できたのでした。


九電鉄の出現で、北九州の電気事業は三派鼎立の状態になります。

和田豊治(富士紡績社長)の九州水力電気、
松方幸次郎の九州電気軌道の三社の競合となったのでした。



九州の電気と交通をまとめ上げた松永ですが、
さらに政界にも進出した時期がありました。




大正6年、松永は博多商業会議所の会頭に就任します。
同時にその故に福岡市から推されて衆議院議員にもなりました。

選挙の相手は中野正剛。

中野は新聞を持っているうえに、
しゃべることは商売のような男でした。

松永も野次を得意としてきたと、多少は自信がありました。

選挙の早慶戦は第一回は慶應松永の勝ちでしたが、
二回目は負け、松永はそれっきり立候補をやめます。

43歳の若い会頭であり、新進代議士というわけでした。


時の内閣は寺内正毅首相、
松永は後藤新平、田健次郎などの新政会に所属。

戦後保守合同をやった三木武吉も同期の一年生代議士でした。

松永はまた日本の炭鉱の保安対策の遅れを指摘し、

「炭鉱資本家は自己の義務を怠り、労働者の犠牲において稼いでいる」

と主張します。

すると福岡出身の野田卯太郎逓相がやってきて、

「君がいまいうても急に改まりはせぬ。
 つまらぬからやめておけ。そのうちに彼ら自身が弱るよ…」

といって、松永の肩をたたきました。

あとで聞くと、大手の炭鉱業者連が野田のじいさんに、
裏で手をまわしていたことがわかります。


松永は公害問題でも木が枯れ果て赤肌になっているところの取り締まりを主張します。
瀬戸内海の風致を救ったとの自負があったのでした。




続きはまた来週に。




私の履歴書─昭和の経営者群像〈9〉




昭和の高度経済成長を築きあげた経営者たちの私の履歴書。
過去の記事はこちらからどうぞ。


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