この履歴書の冒頭、松永は、
「これまでの自分をふりかえってみると、正直にいって多くの点で私は失敗者だと自己判断する。」
と述べています。
同時に、
いまも働いていられるのは、
悪運が強いからだとも言っています。
「運というものは面白い。
初めよければ後が悪かったり、
その反対であったり、人によっては終始よかったりするものだが、
私は運には恵まれて今日まできた。」
長崎県壱岐郡石田村印通寺において、
明治8年12月1日、松永は誕生しました。
祖父初代松永安左エ門は壱岐の商家、
幕末から明治にかけて、その時代なりの新しい事業をいろいろ興します。
松永はこの祖父の影響、
そして福沢諭吉に強い影響を受けました。
祖父は積極的な活動家、創意の人で、
一代でかなりの産をなします。
松永が青年期壮年期に次々と事業に着手したのも、
祖父の流儀を見習ったものでした。
松永は壱岐に15歳まで、
そして父の急逝によって家業を継いでいた18から21歳まで暮らしました。
幼名亀之助の時代でした。
松永は「亀さん」と親しまれ、
祖父母、父母、親戚一統から非常にかわいがられて育ちました。
父吉太郎─二代目松永安左エ門20歳の時に、
長男として松永は生まれ、
跡取り息子として、愛情を独占していました。
なんのひがみもなく、何の懼れるところもなく、
朗らかに、明るく、単純と率直をもって終始することのできる性格をつくり上げたのは、
のびのびと育った愛情集中のたまもの。
のちにわがまま者であり、
世間の評判や褒貶にびくともしない横着者に発展した性格は
このときにできあがったと松永は見ているようです。
壱岐の青年時代は、
日清戦争前、時代の転換期でした。
松永はじめ地域の青年は大いに刺激を受け、
誰が早く村を出て立身出世するかという関心も強くありました。
事実その仲間うちから、
のちに朝鮮の渋沢栄一といわれた斎藤久太郎、
初代京城商工会議所会頭になった松永本家の達二郎、
朝鮮一の大地主となって米沢の本間家と肩を並べた熊本利平。
将官となった軍人、財界、法曹界の有力者になったいわゆる成功者と言われる人が次々と出たのでした。
青年の間には積極果敢の風潮がみなぎっていました。
明治22年。
憲法発布によって伊藤博文が首相となったとき父は松永にこう言います。
「これからは学問次第で、誰でも天子様の次の位になれる」
松永は12,3歳のころから夢を持ちました。
南アローデシヤを拓いたセシルローズの伝記を読み、
項羽と劉邦、三国志など、
和漢の英雄豪傑談から、松永は相当の大志を抱きます。
松永は、学問については、
慶應義塾に入ろうとの希望を強く持っていました。
同じ九州、中津藩の微禄武士の出で欧米で新しい学問を身につけ、
斬新な学風で一世に知られた福沢門にはいることは、
そのころの青少年のあこがれの的でした。
松永は「学問のすすめ」を読んで福沢門に進むと一人で決めます。
通っていた第十七高等小学校もあと一年で終わるという頃、
この思いを強くもちましたが、
父も伯父も家を離れることを許しません。
そこでハンガーストライキ─絶食の手段に出ました。
許してくれなければ、と、一口も食べず。
二、三日経つとまず母が折れ、祖母が折れ、味方ができます。
「そんなにいうなら」
と渋々父が承諾したときは、腹ペコを通り越して、
天にも昇る気持ちになりました。
松永にとっては人生計画の第一歩、
全く新しい環境へむけて旅立とうとしていました。
ハンストのエピソードは何となく、
少年時代の自分と同じものを感じます。
自ら立ち上がる起業精神の原点のようなお話ですね。
松永のベンチャースピリットは勉強になります。
続きはまた来週に。
私の履歴書─昭和の経営者群像〈9〉昭和の高度経済成長を築きあげた経営者たちの私の履歴書。
過去の記事はこちらからどうぞ。
- 関連記事
-
コメント