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【再録】父の死と二代目経営者への教訓─梁瀬次郎(ヤナセ社長)その8(終)─昭和時代の私の履歴書

昭和の偉人たちが何を考え、失敗にどう対処し、
それをいかに乗り越え、どんな成功を収めたのか、

日本経済新聞に掲載されている、
自伝コラム「私の履歴書」から
探ってみたいと思います。



私の履歴書─昭和の経営者群像〈8〉



梁瀬次郎のお話の続きです。

ドイツ車の扱いをめぐり、
梁瀬は父と徹底的に対立し、
あわや社長解任というところまで行きました。

梁瀬の履歴書を読むと、
子供のころから父は非常に厳しくつらくあたってきたことがわかります。

そして社長としての梁瀬の判断にも、
厳しい対応を続けてきたのが、
創業者であり会長である父親でした。






昭和31年の正月のこと。


「会長の主治医である近山先生から、
 今晩何時でも結構ですからお立ち寄りくださいとの電話があった」

と会社から連絡が入ります。

その一年ほど前から、
父は様子が不快気味で家で休養していたのでした。


梁瀬は近山先生を訪れます。

先生は静かに、


「まことに申しにくいことですが、お父様は食道ガンです。
 七十八になっておられるので、
 手術をされた時、体力的に耐えられるかどうか心配です。

 ご親族と相談して手術されるか、
 それともこのまま痛みがおきない方法で静かに残りの人生をすごしていただくか、
 お決めください」


と言われました。


姉妹を集めて相談し、

「とても手術は無理で気の毒」

と結論が出、母には絶対に知らせないこととしました。


近山先生にその旨報告し、
いつごろと考えるかと尋ねると、

「一時とても快方に向かい、
 あれは近山の誤診だろうと皆さんが思われるかもしれない。
 しかし、およそ6月10日ごろとお考えください」

とのお話。


父は5月25日の株主総会に

「どうしても出席したい」

と言い始めます。

そのころは状態が大変に良くなり、
一見全快したように見受けられたのでした。


株主総会の出席について先生に相談したところ、

「肉体的には疲れるのでマイナス。
 精神的には自分の最後の仕事をなしとげたという満足感はプラスです。

 本人の希望であれば、出席されてもいいでしょう。
 いずれにしても6月10日の予測に変化ございません」

とのこと。


父は当日の朝、
母に一番好きな背広を用意させ、
赤いネクタイを結んで自宅を出、
運転手に「宮城前に行ってくれ」と命じます。

宮城前に着くと車の窓を開け、
皇居に向かってしばらく静かに頭を下げていました。

その後、自分が一番魂を込めて建築した日本橋のかつての本社「ヤナセストア」の前を通ります。

そこには、梁瀬商事の全従業員が並び、
父の車を最敬礼して見送ってくれました。


芝浦の本社に到着、
梁瀬は父を背負い、会場の部品倉庫の二階の狭い部屋まで
階段を一歩一歩上がっていきました。


父は開口一番


「今日は皆さんがたの顔が見たくてここにやってきました。
 皆さん元気そうで大変うれしい。

 世界の自動車産業はこれから発展するので、
 われわれはGM、ベンツ、VWとしっかり手を握って仕事を進めていただきたい」


挨拶が終わったあと、
そのときだされた三田の「大坂家」のまんじゅうを、

「ああ、おいしそうだね」

と言って母に小さく切ってもらって口に運んだのでした。


かんで飲みこもうとしたとたん、むせて吐き出そうとしました。
母があわててハンカチでおさえましたが、父は

「もう、口の中でおいしければそれで結構」

と言い、そのまま静かに座っていたのでした。


総会も無事に終了し、
梁瀬は父を再び背負い退席しましたが、
父の顔は晴れ晴れとしていました。


芝浦の本社の全従業員が門の前に整列して送りました。


自宅に帰り着いたときは、
父は服を着替えるのもやっとという状態で、
床に入るとそのままこんこんと眠ってしまったのでした。


6月5日ごろから容体が急に悪化、
6月11日の午前1時に息を引き取りました。


近山先生の予測した日とほとんど変わりませんでした。


葬儀は会社のサービス工場で行われ、
棺は在社30年以上の現場の人にかついでもらい、
本社、関係会社の総員に見送られました。

数日後、納骨のため群馬県豊岡村に行くと、
村の小、中学生全員が道の両側に並んで村の大先輩として
礼をつくして迎えてくれたのでした。

しあわせな最期でした。



父が静かに息を引き取った時、
これで永久に父とお別れだと思い、
梁瀬は一人で庭に出て夜空を仰ぎました。


入梅のころとは思えぬほどに
空は澄みわたり、満天の星が輝いていました。

一か月ほど前に、病床で梁瀬に語りかけた父を思い出すと、
目頭が熱くなってきたのでした。



5月の初め、
自宅で夜中に目を覚ました父が

「すぐに次郎に会いたい」

と言い出しました。

午前3時頃でしたが、
父の家に急ぎ駆けつけ、梁瀬は枕元に座りました。

父は梁瀬の手を強く握り、


「いままでの君の親孝行に対していかに感謝しているか、
 素直にありがとうと言いたいと思って来てもらった」


と切り出しました。


父に礼を言われたのも、
手を握られたのも、

生まれて初めて。


梁瀬にとっては涙の出るほどうれしいことでした。

父の話は続きます。



───────────────────────────────
【引用ここから】


「二代目だからと言って、
 先代の創立した会社をただ守っていけばよいという気持ちは、
 即、後退を意味する。

 会社をつぶしても構わない、
 そのくらいの気持ちで前へ前へと進むべきである。

 会社はそう簡単につぶれるものではない。

 その結果、万一しくじっても仕方がない。

 思った通り思う存分に仕事をしてもらいたい。



 しかし、私がもしいなくなったあと、
 君が仕事を成功させたとしても、
 心からほめてくれる人がいない寂しさを痛感するだろう。

 逆に失敗すれば皆が悪口を言い、
 あざけり、笑うだろう。

 どうか後に残る母に、最後まで十分に孝養をつくしてもらいたい。

 残念ながら、私はすべての力と時間と自分個人の財産を会社につぎこんでしまった。

 自分の財産は、
 この三番町の五百坪の土地と小さな家一軒だけだ。

 君には何一つ残すことができず、
 今後金の面で苦労すると思うが、


 自分の財産をつくることより、
 会社を立派にすることが本当の男の仕事だ。


 そこに喜びを見いだしていってほしい。」


【引用ここまで】
───────────────────────────────


病に臥せっているとは思えないほど、
父はよくしゃべったのでした。

朝日が昇る中、梁瀬は、


「父とはずいぶん対立してきた。
 ばか者呼ばわりされ、悔しさで泣きたいこともあった。

 父を反面教師として経営の道を歩んでもきた。

 しかし、やはりありがたい父親だった」


と感無量の気持ちで歩いていたのでした。


社葬も終わり、梁瀬は、

「これからは自分で考え、自分で計画し、自分で実行しなければならない」

梁瀬グループの浮沈はまさに自分にかかってきたと
しみじみと感じたのでした。



その後梁瀬は、国際的な経済活動にも力を入れ、
ハワイホノルルに、仲間の青年実業家とビル建設の計画を立てたり、

日本テレビジョン(TCJ)をつくり、
CM、アニメ制作の先駆けとなる会社をつくります。

「エイトマン」「鉄人28号」「明るいナショナル」「アンクルトリス」のほか、
漫画家の長谷川町子にお願いし、
「サザエさん」のアニメ化も手掛けたのでした。


そして梁瀬は父と同様、
「攻撃型経営」を基本とします。

35年5月には、戦後初めての外車ショーを開催します。


東京オリンピックの39年、そして42年に相次いで
二人の娘が結婚し、婿の稲山孝英はのちに社長となり跡を継ぎます。


昭和48年、日興証券副社長で友人でもある遠山直道から、
梁瀬は日本を代表する企業となるために上場すべきだとすすめられます。

父も梁瀬も株式公開については消極的でしたが、
遠山の熱心なすすめもあり、株式公開を決意します。

しかしその決意の数日後、
遠山が乗っていた旅客機がフランス上空で空中衝突、
乗員全員が死亡とのニュースが流れたのでした。

悲しみと悔しさと梁瀬の受けた衝撃は大きなものでした。

梁瀬は迷います。
上場すべきか、取りやめるべきか。


そんなとき、生前父がよく漏らしていた言葉を思い出すのでした。


「何かことを進めるにあたって、不慮の事故が起こったら、潔く退くべきだ」


結局梁瀬は株式公開を断念し、
その後も方針は貫かれました。


このころ本業は勢いに乗り、
エアロコマンダー航空機の販売も手掛けます。

また、紳士婦人服の販売、ガラス温室の販売なども手掛けたのでした。



しかし昭和53年、
母が静かに息を引き取ります。

両親を失い、子供も育って手元から去り、
古稀を迎えようというこのころは、

朝から夢中で働いている間に、
ふと人生の寂しさを感じることがあったと梁瀬は述べています。



昭和55年12月、
日産自動車と西独VWが提携、
VWの乗用車サンタナを日産が生産し販売すると、
突然の発表がありました。

梁瀬はそれまで30年もの間、
西独VWと深く付き合い、
VW車を日本市場に紹介する努力を続けてきましたが、
日産との提携については前もって何の話も聞いていませんでした。

頭越しの提携に、梁瀬は怒り、
裏切られた悔しさが胸いっぱいに広がります。


VWに抗議しますが、
「販売については日産の販売網を活用するからヤナセの協力はいらない」

とにべもなく。


新聞、週刊誌は、
ヤナセの存続は難しくなると書きたてましたが、

一年もたたないうちにVWの輸出担当部長から

「日産で生産するサンタナをヤナセでも販売してくれないか」

と百八十度の方針転換がありました。


しかし梁瀬は断固として断ります。
続いてシュミット副社長からも同じ申し込みがありましたが、
これも断ります。

その後VWは社長が交代し、
ドクター・ハーンが新社長に就任します。

梁瀬の三十年来の親しい友人でした。


彼は早速飛んできて、
過去の経緯は水に流して協力してくれ、と梁瀬を説得します。


───────────────────────────────
【引用ここから】


私は五十数年前のことを思い返していた。
父がGMとシボレーの販売権をめぐり対立、
けんか別れしてしまった一件だ。

GM車の販売権を返上した梁瀬が、
その後どんなに苦労したかを覚えている私は

「商人はソロバンを忘れてケンカしてはならない」

と強く感じていた。


「ケンカはギリギリの線まできたらやめだ。
 最終衝突は避けないとお互いに大きな損失」

と考え、ハーン社長に

「それでは日産さんとよく話し合って意見が合えば協力しましょう」

と申し上げた。


【引用ここまで】

───────────────────────────────


怒り、恨み、悲しんだ梁瀬でしたが、
最後は商人としての道を選択しました。

若いころの自分だったらどうだったろうかと考えたようです。


最後に梁瀬は、
日本人が「感謝」の気持ちを忘れてはいないかと述べています。
お互いが思いやりを持ち誇りを持って協調していく。



そして今の日本(昭和60年)には、
外国に留学し、英語も達者な経営者が増えたが、


「真の国際感覚とかインタナショナル・マインドなどは、
 自分の国を愛するという気持ちが基礎にないと生まれない。

 愛国心がなければ、ただ英語をしゃべる口先だけの国際人に終わってしまう。」


とも述べています。


そして自分を顧みて、「二代目経営者」について以下のように述べています。



───────────────────────────
【引用ここから】


時代は非常な速さで進んでいる。

継走のパターンも変化してきて、
昭和生まれの創業者が昭和生まれの二代目に譲る例もふえてきた。


ひとつの家業を引き継ぐことは、
一見やさしそうでなかなか難しい。

二代目が責任を与えられた時、
心がけるべきは何といっても、


その立場に生まれたという感謝の気持ちを持つことだ。


そして人にほめられたいと、
力以上のよい格好を見せるのも慎むべきだ。

これは、私が武田勝頼“兄貴”から得た二代目経営者への教訓である。


経営者が一番身につけなければならないのは、
徳であり、
徳のない人は経営者になることはできない。

徳とは思いやりの気持ちと、
自分自身の感謝の気持ちが生み出すものだ。


【引用ここまで】
───────────────────────────




二代目経営者として生まれ、
創業者である偉大な父から厳しく育てられた梁瀬でしたが、
父親との対立を乗り越え、大きな経営者になったのだろうと推測します。

そしてよく考えてみると、
父長太郎が梁瀬次郎に厳しく当たってきたのも、
息子を強く育てるための屈折的なやり方だったのではないかなとも感じました。









私の履歴書─昭和の経営者群像〈8〉




昭和の高度経済成長を築きあげた経営者たちの私の履歴書。
過去の記事はこちらからどうぞ。











(第770号 平成24年10月23日(火)発行)
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