【再録】梁瀬、29歳で社長に就任─梁瀬次郎(ヤナセ社長)その4─昭和時代の私の履歴書 - つくる!宮城県議会議員渡辺勝幸のブログ【仙台市若林区】

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渡辺勝幸について

【現職】
宮城県議会議員【仙台市若林区選出】
 宮城県議会 保健福祉委員会委員。
 宮城県議会 地域防災調査特別委員会委員。
 宮城県議会 議会改革推進会議委員。
 宮城県議会 政務活動費運用検討会議 検討委員。
 宮城県議会 決算特別委員会理事。

自由民主党・県民会議
 事務局次長。
 医療・福祉議員連盟 事務局次長。
 環境・エネルギー議員連盟 事務局次長。
 芸術文化議員連盟 事務局次長。
 防災議員連盟 事務局次長。
 日越(ベトナム)交流宮城県議会議員連盟 事務局次長。
 観光・情報議員連盟 事務局次長。
宮城県議会全国和牛能力共進会宮城大会を支援する議員連盟 副幹事長。
北朝鮮に拉致された日本人を救出し支援する宮城県議の会 事務局長。
宮城県議会国際リニアコライダーの誘致議員連盟 事務局長。
神道政治連盟宮城県本部議員連絡協議会 幹事。

自由民主党宮城県支部連合会
 県民運動本部 副本部長。
 憲法改正推進本部 事務局長。
 女性活躍推進本部 副本部長。
 青年局 局長代理。

仙石線整備促進期成同盟会 顧問。
全日本不動産政治連盟宮城県本部 顧問。
宮城県理容生活衛生同業組合 仙台若林支部 顧問。
宮城県私立幼稚園PTA連合会 常任委員長。
宮城県障害者スポーツ指導者協議会 副会長。
仙台市南地区交通安全協会六郷支部 顧問。
社会福祉法人ウェル千寿会 評議員。
宮城県薬剤師連盟 政策強化委員。

東北大学大学院情報科学研究科 非常勤講師(情報技術経営論)。
起業集団「株式会社つくる仙台」代表取締役。
ミラサポ(中小企業庁委託中小企業支援事業)専門家。
仙台東倫理法人会 監査。

仙台市立沖野東小学校PTA会長。
 沖東夏まつり実行委員会委員長。沖野学園学校支援地域本部協議会副会長。沖野中学校区青少年健全育成連絡協議会副会長。仙台市PTA協議会研修交流委員会委員。若林区まちづくり協議会会員。仙台市立沖野東小学校施設開放管理運営委員会委員長、学校保健委員会副委員長、学校関係者評価委員。沖野中学校区災害対策委員会委員。
沖野東学区民体育振興会参与。沖父ちゃん会(沖野東小おやじの会)顧問。沖野学区連合町内会大運動会実行委員会委員。仙台沖野ソフトボールリーグ顧問。






【経歴】 昭和50年5月10日生まれ。宮城県仙台市若林区出身。41歳。

昭和57年 沖野幼稚園(仙台市若林区)卒園
昭和63年 青森市立筒井小学校卒業
平成3年 仙台市立沖野中学校卒業
平成 6年 宮城県仙台第一高等学校卒業(高46回。二年間応援団長を務める)
平成11年 慶應義塾大学法学部政治学科卒業
     国会議員政策担当秘書資格試験合格

平成12年 参議院議員市川一朗(宮城県選挙区)政策担当秘書
平成13年 慶應義塾大学大学院法学研究科政治学専攻修士課程修了
平成19年 参議院自民党秘書会幹事(平成22年まで)
平成22年 参議院議員市川一朗政策担当秘書を退職

平成23年 経済産業省後援 起業支援ドリームゲートアドバイザー(平成24年まで)
     宮城県議会選挙(若林選挙区)に無所属で出馬

平成24年 林英臣政経塾塾生(東北七期)、大阪維新の会維新政治塾塾生、公益社団法人仙台青年会議所 会員開発委員会委員
平成25年 公益社団法人仙台青年会議所地域共同開発委員会幹事。仙台東倫理法人会幹事(青年委員長)。沖父ちゃん会(沖野東小おやじの会)初代会長
平成26年 東北大学大学院情報科学研究科講師(情報技術経営論・非常勤。現職)。
公益社団法人仙台青年会議所会員開発委員会委員。公益社団法人日本青年会議所憲法論議推進委員会委員。公益社団法人日本青年会議所東北地区宮城ブロック協議会LOM協働委員会委員。

平成27年 宮城県議会議員【仙台市若林選挙区】に初当選。宮城県議会経済商工観光委員会委員、産業振興対策調査特別委員会委員。

公益社団法人仙台青年会議所 総務委員会副委員長。公益社団法人日本青年会議所 日本の未来選択委員会委員。



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【再録】梁瀬、29歳で社長に就任─梁瀬次郎(ヤナセ社長)その4─昭和時代の私の履歴書

2013年07月09日 18:00

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昭和の偉人たちが何を考え、失敗にどう対処し、
それをいかに乗り越え、どんな成功を収めたのか、

日本経済新聞に掲載されている、
自伝コラム「私の履歴書」から
探ってみたいと思います。



私の履歴書─昭和の経営者群像〈8〉



梁瀬次郎のお話の続きです。


学生時代を謳歌した梁瀬ですが、
梁瀬に入社後、苦労をします。

世の中も戦時色が濃くなっていきます。


あるとき梁瀬は突然、本社の社長室に呼び出されます。

梁瀬の父は意外なことを梁瀬に命じました。

「代用燃料の研究、製造、販売をすべてお前がやれ」


と。

梁瀬の名物エンジニアといわれた市来宗男を中心とした
代用燃料車を研究するグループができていたので、

このグループを併合して本格的に研究開発に取り組むことになったのでした。


梁瀬は、固形物で自動車を走らせるよりも、
ガス体を使用する方が効率が良いと思い、

千葉県茂原から出る天然ガスを利用する研究に取り掛かります。

当時天然ガスの研究試作に成功した会社が梁瀬を含め五社ありましたが、
内務省の許可を受けるため、試作車の性能試験を受けました。

厳しい技官の審査を経て、許可が下ります。


天然ガス自動車は大いに当たったのでした。

昭和20年の空襲で芝浦工場が焼けるまで、
天然ガス自動車の製造販売が続けられましたが、
その当時の会社の収益の8、9割をまかなっていました。

日本橋本社は売り上げゼロ、
車体製作の高浜工場も収益がなかなか上がらなかったので、
若い梁瀬は内心得意満面でした。


そして昭和15年12月に定期賞与が出ました。
そのとき梁瀬は、

「会社の収益の八割以上をかせいだのだから、
 賞与にも多少色がついているだろう」

とうぬぼれていました。

日本橋の本社で賞与を受け取ると、
すぐさまトイレに駆け込んで袋を開きます。

見て失望しました。

前の賞与の額八十円より一銭たりとも増えていなかったのでした。


「将来、自分が社長になったら、
 成績の良かった人間にはできるだけ賞与を厚くしてやろう」


と決心し、
その日のくやしさは一生涯忘れることはできない、
と梁瀬は述べています。

その晩のうちに80円すべてを使い切ってしまったのだそうです。






梁瀬はこのように述べていますが、
私は梁瀬の父のこの賞与の判断は正しかったのではないかと思っています。

二代目の梁瀬が成功し、賞与もどーんと出てしまったら、
まわりの見る目もより厳しくなるでしょうし、
何よりも梁瀬自身の実にならないのではないかと。

厳しいようですが、父でもある社長の判断は、
将来の梁瀬のためにも正しかった判断ではないかと感じました。






梁瀬は天然ガスだけでは仕事も伸びないと、
液化ガスの研究に着手します。

これがのちのタクシーの大半が使用することになるプロパンガス装置となります。



梁瀬の父長太郎は梁瀬の創業者であり、ワンマン社長でしたが、
梁瀬自身は父に対してうまく立ち回るすべを身につけてきました。


──────────────────────────────
【引用ここから】


きむずかしい父は稟議書になかなか承認を与えなかったが、
父の決裁を求める役割をになうようになった私は、一計を案じた。

まともに父のところに持っていったら、
まず承認を得られそうもない案件について稟議書を書く時、
わざと二行に一字か、四行に一字くらいやさしい字を間違って書く。

早速父はこれを見つけ

「慶応出のバカ息子は字も知らんのか」

と、例の武田勝頼論になり、一時間も説教したあと

「もういい。今後気をつけろ」

と言って内容を読みもせず、サインをして出ていってしまう。

この方法で決裁が得られたことが何度かある。


【引用ここまで】
──────────────────────────────


戦局が不利になり、
梁瀬の父も先行きに不安を感じるようになっていました。
このころから父の頭に社長交代の構想が浮かび上がってきていました。

父はもともと梁瀬の一番上の姉の主人である漆山一氏を
三井物産から梁瀬の常務に迎え、
将来社長に据える腹づもりでした。

日本橋の本社の役員、幹部たちも漆山氏を支持しており、昭和20年の初めには次期社長として内定しました。


梁瀬の父は、一応、芝浦工場の幹部にも説明する必要があると考えて、
ある日、芝浦に出向きます。

幹部社員を集めて、

「今年五月の株主総会を機に社長を漆山常務に譲るからその積もりで」

と言い出したとたん、幹部社員が猛反発します。


その夜、番町の父の家に押し寄せ

「われわれとしては何としても次郎さんを社長にしてもらいたい」

とひざ詰め談判をします。

翌日、梁瀬は突然、父に呼ばれます。




──────────────────────────────
【引用ここから】


「日本の将来は望みがなく、会社の経営も困難になってきたので、
 思い切って閉鎖することも考えている。

 しかし、君があとをついで、やっていこうという気持ちがあるならば、
 ここで君に社長を譲りたい」

と切り出した。

私は芝浦工場の代用燃料の仕事と、少しばかりの工場経営を覚えたばかりで、
しかも、輸入販売の仕事を昔からやっている日本橋の本社スタッフを掌握する自信がなかったので

「私は29歳と若いし、経営者としては不向きです」

と断った。


しかし、話し合いを続けているうちに

「やはり会社はつぶしたくない。何とかやってくれないか。
 もし、この苦しい時に君が社長として会社を少しでもよくしたら、君を初代の社長として認めよう」

とまで父が言い出した。

私も若気のいたりで

「では、いまのお言葉を一筆したためていただきたい」

と要求すると

「わかった」

とすぐに筆をとって書いてくれた。

この文書は、その夜の空襲で焼失してしまい、このことが後々まで尾を引いた。


【引用ここまで】
──────────────────────────────



昭和20年5月30日、梁瀬自動車工業の株主総会が開かれました。

約一週間前の夜、東京大空襲があり、
梁瀬の家も父の家も、そして芝浦工場も半分が焼けてしまっていたので、
裸同然の新社長の船出でした。


こうして梁瀬次郎は社長に就任しますが、
その後も波乱が起きます。


続きはまた来週に。




私の履歴書─昭和の経営者群像〈8〉



昭和の高度経済成長を築きあげた経営者たちの私の履歴書。
過去の記事はこちらからどうぞ。









(第749号 平成24年10月2日(火)発行)



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