28歳から33歳までの間、5年間に5回の選挙を繰り返し、
5回目にしてやっと初当選を果たします。
のちに3回大蔵大臣を務め、
ユダヤ人として初めての首相にまで登りつめ、
イギリス中の人気を集める政治家となるわけですが、
スエズ運河を手中に収めたり、インドを完全植民地化するなど、
大英帝国の基礎を築いた政治家でもあります。
そんな大政治家が20代から30代にかけての5年間、
4回も落選し、借金まみれで自堕落な生活を送っていたと知ると、
どんな失敗も大したことのないように思えてきますね。
ディズレーリは、
「逆境に勝る教育はない」という言葉を残しています。
4回の落選は、まさに「逆境」だと思いますが、
これを乗り越えてきたところに、ディズレーリの強さがあるのでしょう。
ディズレーリを見習いたいと思いながら、
1回でも大変なのに、4回落選するのはちょっと厳しいなと思ったりもしましたね。
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【以下、ウィキペディアより引用】
4回の選挙落選
【政界進出の決意】
ディズレーリが帰国した時期の1830年代初頭、イギリス国民の関心は政治にあった。
産業革命による工業化した社会に対応した政治変革を行うことが緊急の課題となっていたためである。
1830年には保守政党トーリー党の政権が倒れ、自由主義政党ホイッグ党の政権であるグレイ伯爵内閣が誕生し、選挙法改革をはじめとした政治改革がおこなわれることとなった。
彼の友人ブルワー=リットンも1831年の総選挙で当選を果たして急進派に所属する庶民院議員になっていた。
リットンの縁故でディズレーリも社交界に出席できるようになった。
ディズレーリは『リプレゼンタティブ』紙の発刊に携わっていた頃から政界進出に関心があり、リットンを手本に自分も庶民院議員になりたいと思うようになった。
ディズレーリの父アイザックはトーリー党支持者であり、ディズレーリ本人もトーリー党に好感を持っていたが、当時トーリー党は世論から激しく嫌われており、選挙に勝利できる見込みはなかった。
そのため友人リットンと同じく急進派に接近した。
グレイ伯爵政権によって1832年6月7日に「腐敗選挙区」の削減や選挙権の中産階級への拡大を柱とする第一次選挙法改正が行われると、ディズレーリは庶民院議員選挙への出馬を決意し、ハイ・ウィカムで選挙活動を開始した。
ディズレーリはリットンの伝手でジョゼフ・ヒュームや連合法廃止によるアイルランド独立を目指す廃止組合指導者ダニエル・オコンネルら進歩派の推薦状をもらった。
【ウィカム選挙区補欠選挙】
しかしこの頃ウィカム選挙区選出の議員が別の選挙区に立候補するため議員辞職し、それに伴う補欠選挙がウィカム選挙区で行われることとなったため、ディズレーリはまず旧選挙法のもとで出馬することになった。
リットンはウィカム選挙区にディズレーリの対立候補が立たないよう骨折りしてくれたが、結局ホイッグ党が首相グレイ伯爵の息子グレイ大佐を対立候補として擁立してきた。
一方この選挙区で勝つ見込みがなかったトーリー党は、父親が熱心なトーリー党員であるディズレーリの出馬を歓迎していた。
ディズレーリはこの補欠選挙で「私は1ペニーも公金を受けたことがない。また1滴たりともプランタジネット朝の血は流れていない。自分は庶民の中から湧き出た存在であり、それゆえに少数の者の幸福より大多数の幸福を選ぶ」と急進派らしい演説をした。
しかし旧選挙法のもとでのウィカム選挙区は典型的な「腐敗選挙区」であり、有権者は32名しかいなかった。
このうち20票をグレイ大佐が獲得し、対するディズレーリは12票しかとれず落選した。
【1832年総選挙】
1832年12月に庶民院が解散され、新選挙法のもとでの総選挙が行われた。
新選挙法のもとでのウィカム選挙区の有権者数は298名だった。
ディズレーリは引き続き急進派の立場をとって、
「イギリス国民は、比類なき大帝国の中に生きている。この帝国は父祖の努力によって築き上げられたものだ。しかし今、この帝国が危機を迎えようとしている事を英国民は自覚せねばならない。ホイッグだのトーリーだの党派争いをしてる時ではない。この二つの党は名前と主張こそ違えど、国民を欺いているという点では同類だ。今こそ国家を破滅から救う大国民政党を創るために結束しよう」
と演説した。
公約として秘密投票や議員任期3年制の導入、「知識税」(紙税)反対、均衡財政、低所得者の生活改善などを掲げた。
彼はこれらを改革としてではなく「旧来の制度に戻す」という復古の立場で主張した。
そのため後年の保守党の党首としての立場と矛盾することにはならなかった。
補欠選挙に続いてこの選挙でもトーリー党はウィカム選挙区には候補を立てず、ディズレーリに好意的な中立の立場をとっていた(彼らはホイッグ党の候補を落とすためには自分たちの主張と正反対の急進派を支持することさえ平気でした)。
そのためホイッグ党支持者を中心に「似非急進派」「偽装トーリー」として批判されることもあったディズレーリだが、彼は
「私は我が国の良い制度を全て残すという面においては保守派であり、悪い制度は全て改廃するという面においては急進派なのだ」
「偽装トーリーとは政権についている時のホイッグ党のことである」
と反論した。
しかし結局ディズレーリはこの選挙区に出馬した三人の候補の中で最下位の得票しか得られず、落選した。
【1835年総選挙とグラッドストンとの出会い】
1834年秋にホイッグ党の政権が倒れ、12月に庶民院が解散されて1835年1月に総選挙となった。
ディズレーリはこの選挙に保守党(トーリー党が改名)での出馬を考え、保守党幹部リンドハースト男爵と接触したが、結局保守党からの出馬はならず、再び急進派の無所属候補としてウィカム選挙区から出馬した。
リンドハースト男爵の骨折りで保守党から500ポンドの資金援助受けての出馬となったが、結局前回と同様に三人の候補の中で最低の得票しか得られず、落選した。
この選挙後の1835年1月17日にリンドハースト男爵主催の晩餐に出席し、そこで後のライバルであるウィリアム・グラッドストンと初めて出会った。
グラッドストンはすでに1832年の総選挙で当選を果たしており、この頃には25歳にして第一大蔵卿(首相)を補佐してあらゆる政府の事務に参与する下級大蔵卿(Junior Lord of the Treasury)の職位に就いていた。
ディズレーリはその日の日記の中でグラッドストンへの嫉妬を露わにしている。
一方グラッドストンのその日の日記にはディズレーリについて何も書かれておらず、後世にディズレーリとの初めての出会いを質問された時にグラッドストンは「異様な服装以外には何の印象も受けなかった」と語っている。
【トーントン選挙区補欠選挙】
三度の落選を経てディズレーリは無所属には限界があると悟った。
1835年1月に保守党党首ウェリントン公爵に手紙を送り、
「今の私は取るに足らない者です。しかし私は貴方の党のために全てを差し出すつもりです。どうか私を戦列にお加えください」
と懇願した。
公爵の計らいでディズレーリは保守党の紳士クラブカールトンクラブに名を連ねることを許された。
さらに同年トーントン選挙区選出の議員の辞職に伴う補欠選挙に保守党はディズレーリを党公認候補として出馬させることにした。
これまで党派に所属しないと言いながら結局保守党の候補になったディズレーリは変節者として激しい批判を受けた。
またこの選挙戦中、ディズレーリがオコンネルを扇動者・反逆者として批判したという報道がなされ、オコンネルはかつて推薦状を書いてやった若造の裏切りに激怒し、激しいディズレーリ批判を行った。
これに対してディズレーリは名誉を傷つけられたとして決闘を申し込んだが、オコンネルは昔決闘で人を殺めたことがあり、二度と決闘しないという誓いを立てていたため躊躇った。
結局そうこうしてるうちに警察が介入してディズレーリは果たし状を取り下げる羽目になった。
ただこの件はディズレーリにとって売名にはなった。
この頃のディズレーリの日記にも「オコンネルとの喧嘩のおかげで名前を売ることができた」と書かれている。
しかし結局トーントン選挙区補欠選挙の結果は落選であった。
【借金と小説執筆】
選挙活動と並行してディズレーリは小説家としても活発に活動した。
近東旅行からの帰国の船の中で書いた『コンタリーニ・フレミング』を1832年5月、『アルロイ』を1833年3月に出版した。
さらにその後『イスカンダーの興隆(The Rise of Iskander)』、『天国のイクシオン(Ixion in Heaven)』、『地獄の結婚(The Infernal Marriage)』などを続々と出版した。
また、メルバーン子爵やホイッグ党政権を批判した『ランニミード書簡』、イギリス憲政について論じた『イギリス憲政擁護論』『ホイッグ主義の精神』など政治論文も多数著した。
だがいずれも大した儲けにはならなかった。
しかもこの頃ディズレーリは社交界の女性ヘンリエッタと交際するようになっており、その交際費、また選挙活動の費用で支出が増えていた。生活費に困るようになり、友人オースチンから借金をしている。
さらにオースチンが止めるのも聞かず、スウェーデン公債の販売に関する事業に携わって失敗し、多額の借金を背負った。
1836年から1837年はとりわけディズレーリが自堕落な生活を送っていた時期である。
借金取りから追われる日々を送り、何度も金の無心に来るディズレーリにオースチンも我慢の限界に達した。
オースチンは繰り返し返済の催促をし、一度は返済しないなら法的手段に訴えると脅しさえした。
1836年夏から秋にかけて恋愛小説『ヘンリエッタ・テンプル(Henrietta Temple)』を書きあげ、10月に出版され、『ヴィヴィアン・グレイ』に並ぶ金銭的成功を収めた。
しかしこれだけでは借金返済できなかったので、1837年5月にさらに『ヴェネチア(Venetia)』を出版したが、これは『ヘンリエッタ・テンプル』ほど売れなかった。
【ヴィクトリア女王即位】
1837年6月に国王ウィリアム4世が崩御し、18歳の姪ヴィクトリアが女王に即位した。
彼女が開催した最初の枢密院会議に出席すべくケンジントン宮殿を訪問した枢密顧問官リンドハースト男爵にディズレーリはお伴として同行した。
枢密院会議を終えたリンドハースト男爵は、一人の少女が聖職者・将官・政治家たちの群衆の真ん中を悠然と歩いていき玉座に座る光景、イギリス中で最も権威ある男たちが一人の少女に騎士の誓いを捧げる光景をディズレーリに話してやった。
ディズレーリはその光景を思い描いて憧れを抱き、今の自分では望むべくもないが、いつの日か自分も女王の前に膝まづいてその手にキスをして騎士の忠誠を捧げたいと願ったという。
【当選】
当時の慣例で新女王の即位に伴って議会が解散され、1837年7月に総選挙が行われることとなった。
この選挙でディズレーリは保守党候補の当選が比較的容易なメイドストン選挙区からの出馬を許された。
この選挙区は2議席を選出し、しかもホイッグ党が候補者を立てていなかった。
急進派の候補が出馬していたが、保守党は2議席とも取れると踏んでおり、ウィンダム・ルイスとディズレーリの二人を候補として擁立したのだった。
7月27日の選挙の結果、メイドストン選挙区はディズレーリとルイスが当選を果たした。
ディズレーリは5年間に5度選挙に出馬したすえに、ようやく庶民院議員の地位を得たのであった。
【引用ここまで】
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