2018/06/30
志を得たならば民とともに行動し、志を得なかったならば、独りわが身を修めよう
出処進退の道について考えるに、伊尹に至っては、一点の遺憾とすべきところが無い
ということができます。
天下の重任をみずから担い、
民を目覚めさせ民を救った態度は、
孟子のいう「聖の任なる者」、
責任感を特色とする聖人でありますが、
しかもその初めは畑のうちで暮らしながら、
堯・舜の道を楽しんでおり、
湯王から三顧の礼で聘せられるに及び、
はじめて仕えたのでした。
彼が自らを重んじたこと、以上のごとくでした。
孔子であっても、
その出処進退の道は、
伊尹を越えるものではありません。
すなわち孔子が、
魯・衛・陳・宋の諸国を遊説したのは、
伊尹の「任」、責任感ある態度であり、
陳におられた時、
魯の狂者、?者を思われたのは、
伊尹が、民を目覚めさせようとした志にほかなりません。
また孔子が『易』を読んで、
その書物を綴じているなめしがわを三度もすり切ったり、
夏や殷の時代の礼法については、
よくこれを説明することができるといわれたのは、
伊尹が耕作の生活をしながら、
堯・舜の道を楽しんだ心であります。
孟子は孔子を目標として学問した人物であります。
同時に常に伊尹を褒めたたえています。
さらに自身の立場を述べては、
「志を得たならば、民とともにこれ
──仁・礼・義によって行動しよう」
といっています。
これは、伊尹の、
民を目覚めさせ民を救わんとする志であります。
また同じく自身の立場として、
「志を得なかったならば、
独りわが身を修めよう」
といっていますが、
これは伊尹が耕作の生活をしながら、
堯・舜の道を楽しんだ心であります。
後世のことでは、
諸葛孔明が、そのはじめはみずから南陽で耕作しながら、
常に自身を管仲や楽毅に比較し、
そして先主劉備の三顧を待って
はじめて仕えたのでありますが、
仕えるや、漢・賊は両立せず、
王業は偏安ならざるをもって、
奸兇をはらい除き、漢室を興復することを自己の責務としたのです
これはまことに伊尹の人物を想見せしめるものがあります。
ということを約150年前の日本において、
政治犯として牢屋の中にありながら、
囚人と看守に対して
熱心に教えた人がいたのでした。
その政治犯は間もなく
斬首刑になってしまいます。
そして時は立ち、
その政治犯の弟子たちが、
明治維新の原動力となり
日本を変えていったのでした。
この本をときどき繰り返し読んでいます。
⇒ http://www.amazon.co.jp/o/ASIN