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【再録】かんばん方式と日米開戦─豊田英二(トヨタ自動車会長)その4─昭和時代の私の履歴書

昭和の偉人たちが何を考え、失敗にどう対処し、
それをいかに乗り越え、どんな成功を収めたのか、

日本経済新聞に掲載されている、
自伝コラム「私の履歴書」から
探ってみたいと思います。



私の履歴書─昭和の経営者群像〈8〉



豊田英二のお話の続きです。


昭和11年の終わりから昭和12年の初めごろまでは、
トラックをつくっても売れない時期が続いていました。

会社がつぶれないために、必死でしたが、

その矢先に日中戦争がはじまり、
陸軍が大量に買い上げてくれたので、
在庫を一掃することができたのでした。

日中戦争の特需で会社は助かったのでした。


経営計画は軌道に乗り、
工場の建設も順調に進みます。

13年の春からは大量の人員を採用し始めました。

そのころ英二は、
自動車づくりを教える先生の役をやっていました。

13年夏の暑い時期に、工場の引っ越しをします。
引っ越しが終わると同時に試運転に入り、

11月3日に関係者やお客さんを呼んで、
大がかりな完成披露式を行いました。

トヨタはこの日を創立記念日にしています。

挙母工場の建設のときに、
英二が中心となって車の寸法表示を
ヤード・ポンド法からメートル法に切り替える作業を進めました。

そしてメートル法の採用と同時に、
流れ作業の導入を決めます。

喜一郎はそれを実現するため、克明なパンフレットをつくりました。
彼の頭の中には、工場を建設する前から流れ作業があったのでした。

流れ作業にすると、
品物のたまりはなくなり、倉庫もいらない。

ランニングストックが減って、余分な金が出なくなる。
逆に言えば、買ったものが金を払う前に売れてしまうわけで、
この方式が定着すれば運転資金すらいらなくなる。

つまり、

「毎日、必要なものを必要な数だけつくれ」

ということ。

決められた数だけ生産すれば、
早く帰ってもいいし、できなければ残業となる。

「ジャスト・イン・タイム」

この和製英語はのちにアメリカでも流行りました。


喜一郎が従業員を洗脳してまで定着させようとした、
この生産方式ですが、
戦争が始まり、完全に定着させることはできませんでした。

戦後「かんばん」方式として有名になります。



英二は挙母工場の第二機械工場の責任者となります。
日中戦争関連で、中国に本格進出することにもなりました。

天津に「北支自動車工業」を設立、
北京、南京、上海、青島など英二は中国各地もまわりました。




英二は昭和14年の春に父のすすめで見合いをしました。
同年10月9日に結婚式を挙げたのでした。



昭和16年に入ってから、モノがじわじわ入らなくなっていました。
日米開戦は12月8日の朝、七時のニュースで知ります。

真綿で首を絞められるような感じがあった英二は、
日本が勝てるかどうかは別にして、頭にかぶさったものが取れたような気がしたのだそうです。

しかし実態は全く違いました。
開戦の半年前に米国から帰国したトヨタの嘱託の人が、
開戦のニュースを聞いて、

「日本はとても勝てません」

と語ったのが印象的だったと述べています。


開戦のころ、日本の鉄の生産量は年間600万トン。
これは米国の20日分に過ぎない量でした。

日本はそれしかない量で戦争を始めてしまいます。
戦争が激化するにつれ、鉄の生産量はだんだん減ってきます。

終戦の年には、米国の一日分になってしまったのだそうです。

これでは戦にならないと、日本が負けると確信した矢先に戦争が終わり、
英二には次男が生まれたのでした。

その子には、モノがすっからかんになり、
戦争が継続できなくなって負けたという記念に、
そのシンボルである鉄をとって、

「鉄郎」

と名付けたのでした。


英二は終戦直前の20年5月に赤井久義副社長の強い推薦で、
取締役になりました。

喜一郎は、

「英二は三十歳そこそこ。まだ若すぎる」

と反対したようですが、
赤井の強い主張で役員就任が実現したのでした。

喜一郎は早い段階から、日本が負けることを見抜き、
仕事への意欲をなくし、読書三昧の生活を送っていました。

仕事は赤井が切り盛りしていました。


工場は最初のころはあまり攻撃されませんでしたが、
機銃掃射は何回か受けます。

工場よりも事務所を米軍は狙ってきたのでした。



8月15日、終戦を迎えます。
隣に陸軍中尉の監督官がいて、
天皇陛下の放送を聞きました。

しかしなかなか末端までは伝わらず、
三時ごろまではみんなで片づけ仕事をしていましたが、

夕方には戦争が終わったことが工場全体に広がり、
みんな茫然自失となり、復旧工事をやめて帰ってしまいました。


翌16日も混乱しましたが、
昼過ぎに赤井副社長が幹部を食堂に集めて演説をしました。


「日本は戦争に負けたが、五年もすれば元に戻る。

 トヨタが仕事としているトラックは、戦時中も必要だったかも知れないが、
 これから日本が復興する際にも重要な道具となる。

 トヨタはそれをつくって供給する責任がある。

 だからそのつもりで再出発しよう」


この赤井の演説でみんなやる気が出てきました。
16日には「明日から生産を再開しよう」という確認をしました。


八月の末になって、喜一郎が突然工場に姿を現して一席ブチます。


「赤井君の言うようにトラックをつくるのは結構なことだが、
 占領下ではいつまでつくれるか分からない。

 と言っても、トヨタは何千人かの従業員を抱えている。
 それに家族もいる。

 まずその人たちに仕事を与え、食べさせることを考えなければならない」


喜一郎は人間の基本生活は衣食住だとし、

衣は紡織会社を経営していたので、
技術があるからいつでもできると。

喜一郎から英二は、瀬戸物業をやれといわれます。

竹輪をつくれという指示もありました。
豊田章一郎が稚内に行って、竹輪作りを始めたのでした。

ドジョウを養殖しろという話も。

喜一郎はとにかくいろんなことをみんなに言いつけます。


しかし11月に入り、占領軍との交渉で、
乗用車はダメだが、トラックとバスはつくってもよいということになりました。

喜一郎の発案による新規事業は
ほとんどしりつぼみとなります。

トヨタでは小型トラックの生産を始めることになったのでした。



しかし赤井副社長は不運なことに、
昭和20年12月10日の寒い日に交通事故で亡くなられたのでした。

英二は、赤井さんが生きておれば、
トヨタの歴史はもっと変わっていただろうと述べています。


終戦直後のトヨタには困難が待ち受けていました。





続きはまた来週に。







私の履歴書─昭和の経営者群像〈8〉


昭和の高度経済成長を築きあげた経営者たちの私の履歴書。
過去の記事はこちらからどうぞ。










(第707号 平成24年8月21日(火)発行)

年齢に関係なく元気な人、その理由

私はけっこう、
たくさんの人に会う機会があります。

年齢に関係なく、
ご高齢の方から赤ちゃんまで、
特に最近は小学生に会う機会が多いですね。

政治活動を応援してくださる方は、
同世代よりも上、年齢が上の方が多いかもしれません。


日々たくさんの方にお会いし、
お話をする機会があるというのはありがたいことですし、

年齢に関係なく、
元気あふれる方にお会いすることが多く、
自分も頑張ろう、
そう思わせて下さる方が周りに多いような気がしていて、
とてもありがたい限りです。


私の父親世代の方でも、
私よりも体力もあり運動能力があって、
ボールを投げるスピードが速すぎて、
30代であるはずの私が舌を巻くということもあります。


特に成功されている経営者の方で、
スポーツや日々の運動をされている方は多いように感じます。


私は、と言えば、
運動は「選挙運動」ぐらいしかやれていないので、
お恥ずかしい限りです。


しかしこうした年齢に関係なく元気な方を見ていると、
ある共通点があることに気づきます。


それは、元気な人は、

「動き続けている」

ということです。


トライアスロンをやる、
となるとハードルが高いですが、

散歩をする、ジョギングをする、
あるいは運動だけでなくても、
どこかへ出かけ友達と会う、
趣味の活動をする、

動き続けている人は、元気な人です。


たしかに自分を振り返ってみても、

動かずにいたときは、
いろいろとネガティブなことを想像したりしてしまっていましたが、

動き続けているときは、
たくさんの人に会うことができ、
人の輪が広がることで元気をもらえたように思います。


これは子供でも大人でも同じなのかもしれません。

もしいま、
自分はちょっと元気がないなあと思う方は、
意識をして動き続けてみてはいかがでしょうか。


きっと変化があらわれることと思います。

「小さな拠点」の形成に向けた新しい「よろずや」づくり(総務省自治行政局地域振興室報告書)

「小さな拠点」の形成に向けた新しい「よろずや」づくり
(総務省自治行政局地域振興室平成27年3月26日「公民連携によるまちなか再生に関する調査研究事業報告書」の公表)




自治体消滅ということが騒がれております。

田舎へ行けばいくほど、
お店がなくて、人もお金もなくて、
若者はどんどん都市へと流れていく。

そんな状況下で、
総務省からおもしろいレポートが出されましたので、
皆さんにシェアしたいと思います。


「よろずや」

とよばれるお店をつくり、
それを自治体が支援していく、
そして地域が主体となったコミュニティビジネスをつくり、
地域の住民が支えていく。

そんな方針のようです。


読んでいきますと、
廃校や旧役場庁舎等を活用し、
地域住民が集う拠点としながら、

新しいサービスを生み出し拠点の複合機能化を図る。


報告書では全国10のよろずやの事例が出ています。
NPO法人であったり、株式会社であったり、
第3セクターであったり、任意団体であったり、様々です。

開設場所も、
旧JA店舗、旧校舎、道の駅などさまざまですね。


このよろずやについては、
平成27年度新年度予算でも、


総務省 「過疎地域等集落ネットワーク圏形成支援事業」
農林水産省 「農村集落活性化支援事業」
国土交通省 「小さな拠点」を核とした「ふるさと集落生活圏」の形成推進


と各省がメニューを用意していますので、
中山間地域の自治体関係者の方は、

「自治体消滅」にただおびえ、怒るのではなく、
ぜひこの報告書を研究してみてはいかがでしょうか。


おもしろいきっかけとなるかもしれません。

沖父ちゃん会(沖野東小おやじの会)で卒業生お泊り会校内きもだめし企画を実施しました!

卒業する小学生を対象に、
私渡辺が所属しています

「沖父ちゃん会(沖野東小おやじの会)」

で、卒業生お泊り会校内きもだめし企画を実施しました。


六年間学んだ校舎に泊まり、
みんなで最後のお別れをするのですが、

おやじの会が夜の校舎でおばけになり、
子供たちを驚かすという企画です。

お父さんたちが15人集まり、
夜の校舎では悲鳴が響き渡りました。


私はおばけになって
音楽室でピアノを弾くという役目をいただいたのですが、

夜の音楽室で一人ピアノを弾くというのは、
本当に怖いものです。

本物のおばけが出るんじゃないかと思うぐらいでしたね。

うちの小学校は西側は住宅地なのですが東側が一面田んぼで、
夜はかなり暗くなります。


おやじの会で、
白塗りになったり、
ここで生首を置くとか、

ああだこうだいろいろ議論しながら、
子供たちがよろこぶ(泣く?)顔を想像して、
一生懸命やりました。


最後に子供たちと話す機会があり、
みんなとても喜んでいたので、
小学校生活最後にいい思い出が提供できたのではないかと思います。


これも、校長先生はじめ学校の先生のご理解と、
PTAのお母さん方がお泊り会の計画をしっかり詳細に詰めて下さったおかげで、
開催することができました。

また近隣の南小泉小学校パパネットから、
おばけグッズをお借りしました。


いろいろな方の理解と努力で、
おばけ活動ができたことに心から感謝したいと思います。


ピアノから生み出される低音は、
直接恐怖心を与えてくるということを、
あらためて知ったものです。


また来年もおばけ活動をしたいですね。

連坊・むにゃむにゃ通り商店街で「100縁笑店街」が開催されます!─山形県新庄市に始まり全国に広がる「100円商店街」とは?

3月28日(土)の午前10時から、
仙台市若林区連坊の「むにゃむにゃ通り商店街」において、

「第1回100縁笑店街」

が開催されます。


ここは地下鉄五橋駅から仙台一高方面へ向かう商店街で、
東七番丁、東八番丁、東九番丁から跨線橋にかけての商店街です。

ここで、それぞれのお店がなんと、


100円


で、それぞれのお店のすてきな商品を販売するという、
なかなかおもしろい企画です。

ぜひお時間のあります方は、
立ち寄ってみてはいかがでしょうか?



ケーキ屋さんは洋菓子が100円、
整骨院はプチプチ整体が100円、
お肉屋さんはコロッケ2個で100円、

歯医者さんは歯ブラシ2本で100円、
とうふ屋さんは油揚げが100円、
飲食店は玉こんが100円、
ねぎまが100円、

自転車屋さんは中古自転車が100円、
衣料品店は靴下が100円、
薬局はのどあめが100円、

床屋さんはヘアケア商品が100円、
コーヒー屋さんはカップコーヒーが100円、
不二家はお菓子が100円、
お花屋さんはお花が100円、


などなど、

あらゆるお店が100円ショップになる!

そんなイベントです。


同時に、東西線まちづくり市民応援部支援金交付対象事業である、

「昭和レトロマルシェ」

も、むにゃむにゃ通りで開催されます。




さて、この「100円商店街」ですが、
山形県新庄市で始まり、
現在全国100か所以上で開催されています。

いまでは、商店街活性化の「三種の神器」と言われ、
新規顧客の創造、店舗に収益を上げる仕組みとして話題になっています。


私も全国の商店街で
まちづくりに一生懸命活動している方々をたくさん知っていますが、

成功事例を取り入れてみたり、
自分の商店街に合わせて工夫をしてみたり、

そんな努力をしているまちは発展していますが、
衰退する空き店舗だらけの商店街に文句だけを言っていると、
そのまま街は沈んでいきます。


100円商店街は、
店舗の軒先に100円で買うことのできる商品を並べ、
開催期間中に商店街全体を100円ショップに見立てるイベントです。

100円で買える商品は収益の主力ではありません。
あくまでもこれを集客のための呼び水とし、

最終的には店内にある
通常の商品の購入を促すことを目的としています。


商店街活性化の三種の神器とは、

バル
まちゼミ
100円商店街


と言われています。


この100円商店街を生み出したのは、
新庄市商工観光課主任の斎藤一成氏と言われています。

斎藤さんは、
このアイデアを思いついたときのことを以下のように言っています。

────────────────────────────
【引用ここから】


「当時、盛り上がっている商店街の事例として、
 名古屋の大須商店街へ視察に行ったんです。

 そこでは年間300ものイベントを打つ計画がされており、
 これはうちとは規模が違いすぎて真似できないと
 ショックを受けました。

 ただ、軒先に商品を並べて、
 足を止めた人とコミュニケーションを取り、
 店内に引き入れているという商売方法を実践していた。

 それが発案のヒントになりました」


【引用ここまで】
────────────────────────────

⇒ 事業構想:プロジェクトニッポン 山形県 全国に広がる「100円商店街」 火付け役が語る意識改革手法
斎藤一成(NPO法人アンプ理事長・新庄市商工観光課主任)





いまではこの新庄南北本町商店街は、
中小企業庁の「がんばる商店街77選」に取り上げられ、
国からも模範的モデル事業とされています。



この事業の特徴と効果を紹介します。

1、イベントと個店の商売が直結
2、歩行者天国にしないメリット
3、R&Dセクションのフル活用(Research(調査)&Development(進展))
4、優れた費用対効果
5、集合体の力=組織強化へ

課題は、いかに店の中に足を運んでもらうかだとのことで、
消費者と商店のコミュニケーションがそのカギとなりそうです。



100円商店街の取り組みは、
商店街活性化の一手法としてこれからますます
注目されていくように感じます。


ぜひ明日28日、
連坊・むにゃむにゃ通り商店街にお越しください!

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当 千葉達     自民現 6,031
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120216 gaitorokuchonomeAkXOfoVCMAAmJYo 早朝街頭を続けています。平成24年1月撮影。

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