2015/03/31
【再録】かんばん方式と日米開戦─豊田英二(トヨタ自動車会長)その4─昭和時代の私の履歴書
昭和の偉人たちが何を考え、失敗にどう対処し、それをいかに乗り越え、どんな成功を収めたのか、
日本経済新聞に掲載されている、
自伝コラム「私の履歴書」から
探ってみたいと思います。
私の履歴書─昭和の経営者群像〈8〉
豊田英二のお話の続きです。
昭和11年の終わりから昭和12年の初めごろまでは、
トラックをつくっても売れない時期が続いていました。
会社がつぶれないために、必死でしたが、
その矢先に日中戦争がはじまり、
陸軍が大量に買い上げてくれたので、
在庫を一掃することができたのでした。
日中戦争の特需で会社は助かったのでした。
経営計画は軌道に乗り、
工場の建設も順調に進みます。
13年の春からは大量の人員を採用し始めました。
そのころ英二は、
自動車づくりを教える先生の役をやっていました。
13年夏の暑い時期に、工場の引っ越しをします。
引っ越しが終わると同時に試運転に入り、
11月3日に関係者やお客さんを呼んで、
大がかりな完成披露式を行いました。
トヨタはこの日を創立記念日にしています。
挙母工場の建設のときに、
英二が中心となって車の寸法表示を
ヤード・ポンド法からメートル法に切り替える作業を進めました。
そしてメートル法の採用と同時に、
流れ作業の導入を決めます。
喜一郎はそれを実現するため、克明なパンフレットをつくりました。
彼の頭の中には、工場を建設する前から流れ作業があったのでした。
流れ作業にすると、
品物のたまりはなくなり、倉庫もいらない。
ランニングストックが減って、余分な金が出なくなる。
逆に言えば、買ったものが金を払う前に売れてしまうわけで、
この方式が定着すれば運転資金すらいらなくなる。
つまり、
「毎日、必要なものを必要な数だけつくれ」
ということ。
決められた数だけ生産すれば、
早く帰ってもいいし、できなければ残業となる。
「ジャスト・イン・タイム」
この和製英語はのちにアメリカでも流行りました。
喜一郎が従業員を洗脳してまで定着させようとした、
この生産方式ですが、
戦争が始まり、完全に定着させることはできませんでした。
戦後「かんばん」方式として有名になります。
英二は挙母工場の第二機械工場の責任者となります。
日中戦争関連で、中国に本格進出することにもなりました。
天津に「北支自動車工業」を設立、
北京、南京、上海、青島など英二は中国各地もまわりました。
英二は昭和14年の春に父のすすめで見合いをしました。
同年10月9日に結婚式を挙げたのでした。
昭和16年に入ってから、モノがじわじわ入らなくなっていました。
日米開戦は12月8日の朝、七時のニュースで知ります。
真綿で首を絞められるような感じがあった英二は、
日本が勝てるかどうかは別にして、頭にかぶさったものが取れたような気がしたのだそうです。
しかし実態は全く違いました。
開戦の半年前に米国から帰国したトヨタの嘱託の人が、
開戦のニュースを聞いて、
「日本はとても勝てません」
と語ったのが印象的だったと述べています。
開戦のころ、日本の鉄の生産量は年間600万トン。
これは米国の20日分に過ぎない量でした。
日本はそれしかない量で戦争を始めてしまいます。
戦争が激化するにつれ、鉄の生産量はだんだん減ってきます。
終戦の年には、米国の一日分になってしまったのだそうです。
これでは戦にならないと、日本が負けると確信した矢先に戦争が終わり、
英二には次男が生まれたのでした。
その子には、モノがすっからかんになり、
戦争が継続できなくなって負けたという記念に、
そのシンボルである鉄をとって、
「鉄郎」
と名付けたのでした。
英二は終戦直前の20年5月に赤井久義副社長の強い推薦で、
取締役になりました。
喜一郎は、
「英二は三十歳そこそこ。まだ若すぎる」
と反対したようですが、
赤井の強い主張で役員就任が実現したのでした。
喜一郎は早い段階から、日本が負けることを見抜き、
仕事への意欲をなくし、読書三昧の生活を送っていました。
仕事は赤井が切り盛りしていました。
工場は最初のころはあまり攻撃されませんでしたが、
機銃掃射は何回か受けます。
工場よりも事務所を米軍は狙ってきたのでした。
8月15日、終戦を迎えます。
隣に陸軍中尉の監督官がいて、
天皇陛下の放送を聞きました。
しかしなかなか末端までは伝わらず、
三時ごろまではみんなで片づけ仕事をしていましたが、
夕方には戦争が終わったことが工場全体に広がり、
みんな茫然自失となり、復旧工事をやめて帰ってしまいました。
翌16日も混乱しましたが、
昼過ぎに赤井副社長が幹部を食堂に集めて演説をしました。
「日本は戦争に負けたが、五年もすれば元に戻る。
トヨタが仕事としているトラックは、戦時中も必要だったかも知れないが、
これから日本が復興する際にも重要な道具となる。
トヨタはそれをつくって供給する責任がある。
だからそのつもりで再出発しよう」
この赤井の演説でみんなやる気が出てきました。
16日には「明日から生産を再開しよう」という確認をしました。
八月の末になって、喜一郎が突然工場に姿を現して一席ブチます。
「赤井君の言うようにトラックをつくるのは結構なことだが、
占領下ではいつまでつくれるか分からない。
と言っても、トヨタは何千人かの従業員を抱えている。
それに家族もいる。
まずその人たちに仕事を与え、食べさせることを考えなければならない」
喜一郎は人間の基本生活は衣食住だとし、
衣は紡織会社を経営していたので、
技術があるからいつでもできると。
喜一郎から英二は、瀬戸物業をやれといわれます。
竹輪をつくれという指示もありました。
豊田章一郎が稚内に行って、竹輪作りを始めたのでした。
ドジョウを養殖しろという話も。
喜一郎はとにかくいろんなことをみんなに言いつけます。
しかし11月に入り、占領軍との交渉で、
乗用車はダメだが、トラックとバスはつくってもよいということになりました。
喜一郎の発案による新規事業は
ほとんどしりつぼみとなります。
トヨタでは小型トラックの生産を始めることになったのでした。
しかし赤井副社長は不運なことに、
昭和20年12月10日の寒い日に交通事故で亡くなられたのでした。
英二は、赤井さんが生きておれば、
トヨタの歴史はもっと変わっていただろうと述べています。
終戦直後のトヨタには困難が待ち受けていました。
続きはまた来週に。
私の履歴書─昭和の経営者群像〈8〉
昭和の高度経済成長を築きあげた経営者たちの私の履歴書。
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(第707号 平成24年8月21日(火)発行)