2014/09/30
農林次官から厚生大臣、小松製作所社長へ─河合良成(小松製作所社長)その6(終)─昭和時代の私の履歴書
昭和の偉人たちが何を考え、失敗にどう対処し、それをいかに乗り越え、どんな成功を収めたのか、
日本経済新聞に掲載されている、
自伝コラム「私の履歴書」から
探ってみたいと思います。
私の履歴書─昭和の経営者群像〈10〉
河合良成の履歴書の続きです。
河合は戦時中の東京市助役、
運輸省の船舶局長を務めました。
終戦直後、食糧事情の最も深刻なときに、
国の先輩でもある時の農相松村謙三氏が二度も来て
「どうか農林事務次官をやってくれぬか」
と頼むので、
河合は適任でないと思いましたが承諾して次官になります。
当時は深刻な食糧不足で、
数字では800万人の餓死者が出るかもしれぬというほどで、
河合は占領軍に食糧輸入をとくと懇請し、
ミカンの皮からトウモロコシのしんまで食べてもらって
辛うじて食糧危機を切り抜けたのでした。
21年春に幣原内閣が総辞職し、
松村も辞任したので河合も行動をともにしました。
それから貴族院議員になり、
第一次吉田内閣の誕生で幣原の推薦により、
昭和21年5月、厚生大臣に就任します。
そのころ労働行政は厚生省が扱っていたので、
河合はいろいろな労働問題に悩まされます。
当時は何でも司令部相手の仕事であり、
戦争遺家族や戦傷者に対する年金問題など
いろいろと折衝に苦労が多くありました。
また河合は厚生大臣在任中に総選挙で衆議院に出馬しようと名乗りをあげ、
選挙区を風靡しましたが、
なんと投票日三日前にパージになってしまい、
せっかくの善戦が無になってしまったのでした。
パージの期間は数年続きます。
その間、第百生命と小松製作所に関係していました。
他人からは河合という男は何でもやるように見られていたようですが、
河合は、どれもこれも、
みずからやろうとしたものは一つもなく、
みな人から頼まれてやってきたものでした。
小松製作所の社長も、
自らやろうとしたのではありませんでした。
小松は以前から軍需工業をやりトラクターを生産し、
七、八千人も従業員がいましたが、
それが戦争後だめになり、非常に困っていたのでした。
当時、河合は農林次官でしたが、
そのときの社長の中村が河合のところへ来て相談、
河合は
「これから百五十万歩の開墾をするから、
トラクターをやったらどうか」
といったら、中村は飛び上がって喜び帰っていきました。
そしていったんやめた従業員も四千人ぐらいにして事業を復活させます。
河合が厚生大臣をしているとき、
米軍がトラクターの油の供給を打ち切ったので、
小松では労働事情が極度に悪化、
給料の遅欠配も続き、ストライキやサボタージュが数か月も続きます。
そこで中村社長が河合にストライキをやめるよう手伝ってくれと頼みに来たので、
いきがかりがある関係上、乗り出すこととしました。
さっそく石川県の工場にいってみると、
共産党の子分みたいなのが待っていました。
厚生大臣だったので、
共産党の連中もよく河合を知っていました。
「君たちの俸給はどうなっているか」
「遅配で困っている」
「ストライキを続けた方が俸給をもらえると思うか、
やめた方がもらえると思うか、どうだ」
「やめた方がもらえると思う」
「よし、ストライキをやめれば、おれも金融の手伝いをする」
この間、三時間で話が決まります。
翌日から河合は仕事をはじめます。
復興金融公庫に行き、
「こういうわけだ。金を七千万円ばかり貸してくれ」
とかけこむと、復金では
「金を貸してもいいが、河合に金を貸すのだから、君が小松をやってもらわなければ困る」
という条件付きだったので、小松入りが実現したのでした。
復金から金融をつけるとき、
「明年三月末日までに人員を三千人までに縮小する」
という約束をします。
しかし従業員に退職勧奨しますが、
なかなかやめないので、
勤怠などにより順番をつけ、
三千番から先を一斉にやめてもらい、
共産党の連中はほとんどを切ります。
しかし彼らは怒ってきたので、
みな検事局に送るという強硬策をとり、
金融業者に対する責任だけは果たしたのでした。
小松が立ち直ったのは、
それからのことでした。
昭和27年の年末選挙で河合は代議士に出ます。
鳩山と吉田がけんかをしている時代、
鳩山党の財政を担当していました。
鳩自党分立というところまで追い込まれ、
河合は自由党を脱退。
代議士をやめる決意をしたときに、解散となります。
自分は政治家に落第した、
河合はそのように回想していますが、
履歴書の最後に、
日本で最も大切なことは民族問題であると述べています。
今日、民族の背骨が曲がっていると。
教育問題でも労働問題でも。
河合の人生は多くの失敗を含め波乱万丈な人生と感じます。
そして多くの人の信頼を得ていたために、
様々な仕事を経験する機会に恵まれました。
なんでもやる、
そんな人生に見えますが、
しかし河合にはどこか一本筋の通ったところがあったのだろうと感じます。
そうでもなければこれだけの事業をやることはできないでしょう。
河合もまた、おもしろい人物です。
私の履歴書─昭和の経営者群像〈10〉
昭和の高度経済成長を築きあげた経営者たちの私の履歴書。
過去の記事はこちらからどうぞ。