堯という君主が天下を治めた次第について話すと、
まず舜という人物を登用して、
政治の大方針を相談しました。
次に益と禹という人物を用いて、
民にとって害になることを取り除き、
稷という人物を用いて民を養い、
契という人物を用いて民を教えました。
以上がその大要です。
ああ、至れり尽くせりです。
しかし後世の為政者は、
その大方針を立てずに小さな枝葉にばかりこだわっており、
そんなことでは何の成果も上げることができません。
まして、人物を登用することに努力せず、
努力して何の成果も挙げずにいるものがほとんどです。
『孟子』の本文に役人の職責を論じている条は、
大昔からある人としての道が、
すべてそのうちに言い尽くされています。
いわゆる「寛に在れ」というものがこれであり、
本文をよくよく味わって、
一字であってもいい加減に読んではなりません。
禹という人物が黄河の治水にあたった際に、
結婚し妻を迎えてからわずか四日にしかなっていませんでしたが、
舜帝の命令を受け、家を出たのでした。
その工事にあっては、
子供の生まれてオギャーオギャーと泣く声が家の外まで聞こえましたが、
禹は門に入ってこれをあやそうともせず、
そのうえ山を越え川を渡った苦労で、
手足にあかぎれができ、脛に毛がないまでになったのでした。
非常な苦労であったといわねばなりません。
昔、聖人が天下の人々のために力を尽くしたことは、
このようであったのでした。
しかし後世になると、
人君たるもの、
生まれては安逸に過ごし、
このような艱難は夢にも知らずに過ごし、
実にもったいないことであります。
またわが長州藩で見れば、
藩祖元就公は、戦場に多くの苦労を重ねられ、
出陣されること大小250回、あるいは300回ともいわれ、
実に夏の禹王の治水に奔走すること八年という苦労を上回るものということができます。
いま、臣子たるもの、
この恩を思うならば、
少しは自身を反省するところがあるがよい。
禹の苦労に感ずるあまり、
藩祖のことに及びましたが、
これも臣たるものの情としてやめられないことなのです。
ということを約150年前の日本において、
政治犯として牢屋の中にありながら、
囚人と看守に対して
熱心に教えた人がいたのでした。
その政治犯は間もなく
斬首刑になってしまいます。
そして時は立ち、
その政治犯の弟子たちが、
明治維新の原動力となり、
日本を変えていったのでした。
⇒
この本をときどき繰り返し読んでいます。