昭和の偉人たちが何を考え、失敗にどう対処し、
それをいかに乗り越え、どんな成功を収めたのか、
日本経済新聞に掲載されている、
自伝コラム「私の履歴書」から
探ってみたいと思います。
私の履歴書─昭和の経営者群像〈9〉安川は日立製作所に入社し、懸命に働きました。
そして大正2年10月、日立を退職し、
米国に旅立ちます。
安川はこのころ、実務について、実際的な訓練を受けたいと思います。
これには大きな電気会社に入るのが一番手っ取り早いと、
米国のウェスチングハウス会社という電機製造会社に
見習い生として入ります。
ところが米国に着いてみると
米国は不景気のどん底で
「今すぐに日本人を入れる余地はない、しばらく待て」
と。
仕方ないので、フィラデルフィアにある兄の友人の家に一時身を寄せます。
言葉の練習をしながら、一月ばかりぶらぶら過ごしていると、
ウェスチングハウスから正式の手紙で
「まだ入れる余地はないが、いつまでも待たしておくのも悪いから、
工場の見学は許してやる。
そのかわり給料は払えない。」
といってきます。
会社で工場見学を許してくれたものの、
三日も四日も同じところを回り、あきがきます。
このとき、安川はふと日本を出るときに言われた先輩の言葉を思い出します。
「米国へ行ったら遠慮をするな。
遠慮をすれば損するばかりで得はしない。
いれられないことは仕方がないが、決して遠慮はするな」
そこで安川は、元気をふるい起こして、いきなり重役に面会を申し込みます。
兄の友人のそのまた友人がウ社の重役をしていたのでした。
遠慮なしに安川が、事務所に机を置いてほしい、
エンジニアの担当者に質問をし答えてもらうよう便宜を図ってもらえないかと。
するとその重役はすぐ電話をかけて、
係に連絡し便宜を図ってくれました。
この会社にはもともと教育部があったのでした。
教育部へ行きわけを話します。
「大きな機械はまだ興味がない。
小さな家庭用のモーターにも興味がない。
中くらいの工業用の機械に関心がある」
と話すと、すぐに電話で手配してくれ、
机を一つあてがってくれます。
図面でも仕様書でも手続きさえ取れば、従業員と同じように見せてくれました。
安川は、さすが米国はハラが大きいと感心します。
そして炭鉱巻揚用電動機についての知識を習得します。
そのうち教育部から、
「おまえはあすから工場へ行って働け」
といわれます。
たいていの留学生は向こうで自活しているので、
安川は気の毒だと会社が判断したようでした。
安川は会社の好意を無にすることになると、
働くことを決意します。
仕事は市街鉄道で使っているようなモーターにコイルを入れる作業で、
普通の作業員並にやらされます。
三か月後、ストライキが起こります。
賃金を上げよというのではなく、
労働組合というものを会社が認めよという要求でした。
ストライキは40日も続きます。
季節は夏に向かい、
たまたま兄の友人から休暇をとったから遊びに来いと言ってきたので、
これ幸いとばかり、安川はウェスチングハウス社をやめてしまいました。
ドイツにでも行こうかと思っていた安川でしたが、
第一次世界大戦がはじまります。
まもなく父から手紙が来ます。
「ドイツに行くなら戦争が済んでからにせよ。ひとまず米国を切り上げて帰れ」
というのでした。
大正3年、安川は米国を去ります。
帰国して、郷里でぶらぶらしていると父は、
「資本を出してやるから何か仕事をしろ」
といってきます。
電気化学をやりたいけれども経験がない。
日立とウェスチングハウスの実習で、電気機械なら。
父にその旨告げると、
「ではそれをやれ」
というので、九州の一角に工場を建てます。
これが安川電機のはじまりでした。
思いたったのが大正4年、登録したのが同年7月、合資会社安川電機製作所、
父と兄弟三人で出資し、20万円の資本金で始めました。
次回に続けます。
私の履歴書─昭和の経営者群像〈9〉昭和の高度経済成長を築きあげた経営者たちの私の履歴書。
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