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つくる仙台はこの10か月で11社をつくりました。

起業支援をすすめています「つくる仙台」ですが、
この10か月間で、


法人を11社


つくりました。
起業したいという起業家の皆さんの熱意と、
士業専門家の先生方のお力のたまものです。

心より感謝するとともに、
東北の復興に幾許かなりとも貢献できるようこれからも頑張りたいと思います。


飲食業、旅行業、建設業をはじめ、
仙台のまちおこし一般社団法人、
カレー屋さんの会社、大崎の会社、大阪の会社などなど、

実に多種多様な会社を、
仙台を中心につくってきました。


起業するということは、
人生を賭けてでもやりたいことをやるということなので、
覚悟をもって熱く取り組んでいる方が多いです。


こちらもそんな熱い方々とたくさん出会えるので、
非常にやりがいがありますね。


現在も会社設立準備をしている案件が何件かあります。

事業計画から融資計画、補助金受給、
税務、労務と、起業家のやるべきことはいっぱいありますが、
つくる仙台ではさまざまな面からお手伝いをしています。


仙台以外のご依頼も増えてきました。
起業へのチャレンジを今後も応援していきたいと思います。





起業集団つくる仙台

リーダーの志が定まるか定まらないかは、自ら決断するか否かにかかっている。

そのむかし、中国のある国の王様が、
両隣に大国があったため、

どちらと組んだらよいだろうかと考え、
孟子に自国の処置をたずねました。


孟子はこれに対して、


「これに対する方策は、吾の力の及ぶところではない」


と答えました。

これは孟子が無責任に言った言葉ではありません。


この問題の解決は、
王様自身の決心から出たのでなければ、
他人の知恵を借りてやったからといって、
成し遂げられることではないのです


ということでした。


しかし、王様がなんとか教えてほしいと切実で切羽詰るものでもあるので、
一つの方策を発さなければなりません。


それは、


「この池を掘り、この城を築く」


ということでした。


つまり、茫然と手をこまねき対策を立てないというのではなく、
防御の手段を尽くして、敵に不意のうかがうべき隙をなくしてしまうということ。


さらに、


「民とこれを守る」


ということ。

これは、上下一致し君臣相親しんで、
この高城・深池に囲まれた都城を守ること。


さらに、


「この城に討死し、しかも民がここを去らぬ」


といっているのは、

万一にも事敗れて城も池も他国の人に奪われるようになったならば、
君臣上下、ともに城を枕にして切腹であると、覚悟を決めること。



ここまで王様が決意されるのであれば、
なし得られることですと。


右隣の国につかえるのも左隣の国につかえるのも、
どちらにもつかえなくてもよいでしょう。

ここまで覚悟が決まれば、
つかえようがつかえなかろうが、
その行動の主体は私自身の手の内にある。


兵家の書物に、
籠城する以上は、負けたならば必ず切腹せよと言っているのはこの意味なのです。





嘉永6年、アメリカの使者ペリーが浦賀に来て、
開港を求める国書を幕府に持ってきました。

幕府はそれを広く諸藩に示し、和と戦いとの利害をたずねました。


そのとき、剣客齋藤弥九郎はこういいます。


「幕府においては、和議の意志が決まっている。
 凡そ和すべきか戦うべきかの決定は、大将軍の心にあることである。

 幕府が真に戦おうと思うならば、必ず大号令を下して、
 アメリカの無礼かくのごとし、われ旗本の衆を率いて、その罪を討とうと思う。
 天下の志を同じゅうするものは、来りて力を合わすべしということであろう。

 果たしてかくのごとくであるならば、和するか戦うかは、一瞬にして決定するのである。」



そして古語にも、

「わが志がまず決定し、その上で問いはかるに、結果はすべて等しい。
 神も護って下されば、卜もかない、その決意を助けてくれる。」

という言葉があります。



志が定まるか定まらないかは、
自ら決断するか否かにかかっている。




孟子が「わが及ぶところにあらざるなり」といったのは、こういう意味でしょう。






ということを約150年前に、
政治犯として牢屋の中で、

囚人と看守に対して
熱心に教えた人がいたのでした。

その政治犯は間もなく
斬首刑になってしまいます。


そして時は立ち、
その政治犯の弟子たちが、
明治維新の原動力となり、
日本を変えていったのでした。






この本をときどき繰り返し読んでいます。

アメリカの工場で働き、九州で起業─安川第五郎(日本原子力発電社長)その3─昭和時代の私の履歴書

昭和の偉人たちが何を考え、失敗にどう対処し、
それをいかに乗り越え、どんな成功を収めたのか、

日本経済新聞に掲載されている、
自伝コラム「私の履歴書」から
探ってみたいと思います。



私の履歴書─昭和の経営者群像〈9〉




安川は日立製作所に入社し、懸命に働きました。

そして大正2年10月、日立を退職し、
米国に旅立ちます。


安川はこのころ、実務について、実際的な訓練を受けたいと思います。
これには大きな電気会社に入るのが一番手っ取り早いと、

米国のウェスチングハウス会社という電機製造会社に
見習い生として入ります。


ところが米国に着いてみると
米国は不景気のどん底で

「今すぐに日本人を入れる余地はない、しばらく待て」

と。

仕方ないので、フィラデルフィアにある兄の友人の家に一時身を寄せます。
言葉の練習をしながら、一月ばかりぶらぶら過ごしていると、

ウェスチングハウスから正式の手紙で

「まだ入れる余地はないが、いつまでも待たしておくのも悪いから、
 工場の見学は許してやる。
 そのかわり給料は払えない。」

といってきます。

会社で工場見学を許してくれたものの、
三日も四日も同じところを回り、あきがきます。

このとき、安川はふと日本を出るときに言われた先輩の言葉を思い出します。


「米国へ行ったら遠慮をするな。
 遠慮をすれば損するばかりで得はしない。
 いれられないことは仕方がないが、決して遠慮はするな」


そこで安川は、元気をふるい起こして、いきなり重役に面会を申し込みます。
兄の友人のそのまた友人がウ社の重役をしていたのでした。

遠慮なしに安川が、事務所に机を置いてほしい、
エンジニアの担当者に質問をし答えてもらうよう便宜を図ってもらえないかと。

するとその重役はすぐ電話をかけて、
係に連絡し便宜を図ってくれました。

この会社にはもともと教育部があったのでした。
教育部へ行きわけを話します。

「大きな機械はまだ興味がない。
 小さな家庭用のモーターにも興味がない。
 中くらいの工業用の機械に関心がある」

と話すと、すぐに電話で手配してくれ、
机を一つあてがってくれます。

図面でも仕様書でも手続きさえ取れば、従業員と同じように見せてくれました。

安川は、さすが米国はハラが大きいと感心します。
そして炭鉱巻揚用電動機についての知識を習得します。



そのうち教育部から、

「おまえはあすから工場へ行って働け」

といわれます。

たいていの留学生は向こうで自活しているので、
安川は気の毒だと会社が判断したようでした。

安川は会社の好意を無にすることになると、
働くことを決意します。

仕事は市街鉄道で使っているようなモーターにコイルを入れる作業で、
普通の作業員並にやらされます。


三か月後、ストライキが起こります。
賃金を上げよというのではなく、
労働組合というものを会社が認めよという要求でした。

ストライキは40日も続きます。

季節は夏に向かい、
たまたま兄の友人から休暇をとったから遊びに来いと言ってきたので、
これ幸いとばかり、安川はウェスチングハウス社をやめてしまいました。


ドイツにでも行こうかと思っていた安川でしたが、
第一次世界大戦がはじまります。


まもなく父から手紙が来ます。

「ドイツに行くなら戦争が済んでからにせよ。ひとまず米国を切り上げて帰れ」

というのでした。

大正3年、安川は米国を去ります。


帰国して、郷里でぶらぶらしていると父は、

「資本を出してやるから何か仕事をしろ」

といってきます。

電気化学をやりたいけれども経験がない。
日立とウェスチングハウスの実習で、電気機械なら。

父にその旨告げると、

「ではそれをやれ」

というので、九州の一角に工場を建てます。


これが安川電機のはじまりでした。
思いたったのが大正4年、登録したのが同年7月、合資会社安川電機製作所、
父と兄弟三人で出資し、20万円の資本金で始めました。





次回に続けます。




私の履歴書─昭和の経営者群像〈9〉




昭和の高度経済成長を築きあげた経営者たちの私の履歴書。
過去の記事はこちらからどうぞ。







会いましょう!─渡辺勝幸と居酒屋で語る会@仙台一番町旨い屋楓



【この会合は終了しました!】




この二、三年、
思い起こすと、いろいろなことがありました。


悔し涙を流し、
人生の無情を感じ、
大地を恨む、

そんな毎日が目まぐるしく続くような人生となっていました。


いろいろなものを捨てることになったり、
いろいろなものを失いました。



しかし不思議なことにいろいろなものを失ってすぐに、
多くの方との出会いの連続が始まりました。


昨年は全国各地の方々と、
そして仙台に住むたくさんの方々と出会うことができました。
たのしかったですね。


出会いの連鎖もありました。
そこには私を紹介してくださったりするステキなキーパーソンがいたりして、
無条件にいろいろな人と出会うきっかけをいただきました。
本当に皆さんに感謝です。


そして確実に言えることは、


私自身の意識を変えた結果、
いろんな人に出会えるようになった。


ということです。
けっこう葛藤もあり大変でしたが、


自分が変わったので出会える人も変わりました。


不思議なものですね。





さて、
一昨年の選挙以来私を応援し続けてくれた「渡辺勝幸応援団」のみなさんが中心となって、


2月28日(木)に、

仙台一番町の旨い屋楓で、


「渡辺勝幸と居酒屋で語る会@仙台一番町旨い屋楓」

を開催してくださることになりました。


楽しい会となり、楽しい皆さんが集まりそうですので、
お時間ありましたらぜひお越しください。

そしてあなたとお会いできることを私も楽しみにしています。

日本一元気になる起業セミナー(2/10)と仙台賢友会勉強会(2/21)で講演をしました!

さる2月10日、東京都新宿区で、
日本一元気になる起業セミナーを開催しました。

また2月21日には、仙台賢友会の皆様にお招きをいただき、
「今後の政治経済情勢と私たち東北の人間がなすべきこと」というタイトルで
お話をさせていただきました。

どちらも参加者の皆様には熱心にお話を聞いていただき、
大変うれしく思い、いくらかなりとも私の思いが伝わればという気持ちでお話をしました。

前者は起業のお話中心に3時間、
後者は政治経済情勢と起業、東北の復興について2時間話しました。

どちらも全力を尽くしたので、
終了後はエネルギーが失われてしまいました。


どちらとも話の内容は異なりますし、
聞いて下さる方もちがいますので同じお話はしていませんが、

ひとつだけ、早川徳次の「私の履歴書」を事例に、
これから私たちはどう生きていくべきかというお話はどちらでもしました。



【参考】

早川徳次(早川電機工業社長)その1─昭和時代の私の履歴書



関東大震災ですべてを失ったシャープ創業者、シャープペンシルの発明者早川徳次─昭和時代の私の履歴書



苦労ばかりの人生は楽しい思い出と化す─シャープ創業者早川徳次(最終回)─昭和時代の私の履歴書



昭和時代の私の履歴書に出てくるそうそうたる人物は、

明治に生まれ、
大正に青春時代を過ごして活躍し、
関東大震災で大変な目にあい、
そこから立ち上がって昭和初期に大きな仕事をするものの、
終戦で再びすべてを失い、
戦後の高度経済成長の一翼を担う。


こんな人生の方が多いです。

そしてほとんどの人が、

1、浪人

2、大病

3、逮捕

を経験しています。

そこから立ち上がってくるわけですね。


早川は若いころ苦労するものの、
まじめに働き信用を得、独立起業し事業を拡大していきますが、
関東大震災で家族も事業もすべてを失います。

そして大阪で再び立ち上がり、
ラジオ製作を機に上昇気流に乗り、
いまのシャープの礎をつくります。


関東大震災ですべてを失った時のくだりは、
読んでいて本当につらくなりました。

東日本大震災のあの時のことを思い出し、
つらさでいっぱいになりました。


しかし、よく考えてみると、
早川が関東大震災を乗り越え、前を向いて新たな挑戦をし続けたように、

私たちもこの東日本大震災を乗り越え、
前を向いて新たな挑戦をし続けなければならないと思ったのです。


早川が当時の人々も、そして後世の私たちも元気づけてくれたように、

いま震災を乗り越え、
東北の地で復興のためにがんばる、
前を向いて挑戦を続けるような私たちの姿が、
日本を元気にしていくのではないか、

そんな気がしています。


そうであるならば、
この日本で再び起ち上がった先人の生きざまを知ることで、

私たち東北の人間、日本の人間は、
何かをしなければならないのではないか。

これは天が与えた天命なのではないかと思うわけです。


私は政治の分野で、
彼はこれこれの分野で、
彼女はこれこれの分野で、

起ち上がる、このことがよりよい世界をつくっていくきっかけになるものと確信をしています。



また機会がありましたら、
多くの方にこのような元気になるお話ができればと思います。


機会をいただいた皆さんに心より感謝申し上げます。

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宮城県議選若林選挙区(令和元年10月27日執行・投票率28.18%)
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