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平成30年1月から政治家版『私の履歴書』を勉強します!

このメルマガでは様々なテーマで記事を書いていますが、
日本経済新聞において
毎月一人の伝記を取り上げている『私の履歴書』というコーナーについて、
要約、分析をしています。

戦後間もなくから続いているこのコーナーで、
日本を代表する人物の履歴書が書かれているわけです。

私は、平成22年に失業したとき、
自由な時間がたくさんありましたので、
戦後間もなくから書かれていた『私の履歴書』を、
古本屋などから集めて、
メルマガに書いてその人生を参考に生きていこうと読み込んだのでした。

当時の私は政治の世界に嫌気がさし、
政治からは離れて、
経済人として、起業家として生きていこうと、
考えて読み始めたわけですが、

『私の履歴書』の昭和の経営者群像シリーズは全10巻であり、
合計約3000ページにもなるもので、

起業家や経営者、財界人など合計50名の人生を読み進めることができました。


私の履歴書─昭和の経営者群像〈10〉
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4532165105/cuccakatsu-22/ref=nosim


時は流れ、7年以上の月日がたち、
いま私は政治の道へ戻っているわけですが、

50人の経済人の人生を垣間見ることができたのは、
大きな財産であったと思います。


現在、経済人の50人を読み切ったところで、
次はやはり政治家の人生、政治家の『私の履歴書』を、
もう一度勉強することが必要ではないかと思う次第です。


20代の私が読んでも気づかなかったことを、
40代になって、
そして実際に政治家になって気づくことがあるのではないかと、
思っていますので、

また年明けから毎週火曜は、
みなさんにお付き合いいただき、
政治家の『私の履歴書』を読んでみたいと思います。


どうぞよろしくお願いいたします。



昭和の高度経済成長を築きあげた経営者たちの私の履歴書。
過去の記事はこちらからどうぞ。

http://cuccanet.blog72.fc2.com/blog-category-24.html





【再録】海のものとも山のものともいえぬ原子力発電の礎をつくる─安川第五郎(日本原子力発電社長)その6(終)─昭和時代の私の履歴書

昭和の偉人たちが何を考え、失敗にどう対処し、
それをいかに乗り越え、どんな成功を収めたのか、

日本経済新聞に掲載されている、
自伝コラム「私の履歴書」から
探ってみたいと思います。



私の履歴書─昭和の経営者群像〈9〉
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4532165091/cuccakatsu-22/ref=nosim



安川は石炭界が深刻を極めていたその時期に、
石炭庁長官として安川は最前線に立つことになりました。

当時の石炭界の仕組みは、
国家統制のような形になっており、
日本石炭がその代行機関のようになっていました。

したがって労組がここを押さえれば、石炭事業は労組の自由になります。
しかもその日本石炭は組織が強く、
社長などは完全に浮いており、職員組合でどうにでもなるような状態だったのでした。

石炭庁としてはここに非常な悩みがあり、
それをコントロールするのになかなか苦心しました。




安川も何度となく長官室に押し込められて、
数時間炭鉱労組に取り囲まれ、
生産管理を認めろと半ば強制的に半ば脅迫的に迫られたこともあったのでした。


特に末弘厳太郎といった先生方が、
生産管理を合法的なようにいって新聞に論文を出したため、
組合の連中は末弘先生がこういわれたから合法的であるなどとしきりにいってきました。

末弘は安川の一年先輩でしたが、

「君は論文でも何でももう少し自重して出してもらわないと産業界に影響して非常に困る」

と一度文句を言ったそうです。


────────────────────────────────
【引用ここから】


この配給制度は戦争中の遺物としてやむを得ないとしても、
やはり不合理なことは不合理だと思う。

石炭がいいも悪いもなく、
トンいくらと決めてしまい、
生産費が、炭価よりオーバーしたら政府から補助金をもらう。

これでは、経営者は少しでも勉強してコストを安くしようという努力をしない。

また、うんと勉強したからといっても、
もうけは多くなりはしないし、
また怠けていても損する気づかいはない。

このままにしておけば石炭の生産は落ちるばかりだ。


【引用ここまで】
────────────────────────────────


安川は北海道から九州の炭鉱を回り、
各炭鉱労組の組合員や幹部と折衝をして石炭増産に努めましたが、

追放の問題が表面化し、辞めざるを得ませんでした。


安川は自分でも忘れていましたが、
福岡の玄洋社という政治結社の理事に名前を連ねていたのでした。

アメリカは玄洋社が今度の戦争に至るまでに一役買っているものと見ていたらしく、
その理事がこともあろうに石炭庁の長官におさまっているということで、
これはとんでもないとなります。

安川はわずか六か月で石炭庁を辞任するということになりました。



その後安川電機では会長に復帰してくれといってきましたが、
追放で辞めたのだから、二、三年は謹慎すべきと、
安川は表向きなにもせずぶらぶらしていました。

その後会長に復帰し、
昭和30年一万田大蔵大臣からの頼みで、
日銀政策委員に就任します。

一年ぐらいたって今度は、
原子力研究所の理事長になってくれという話が来ます。

昭和31年6月、正式の研究所理事長の辞令を受け、
11月の臨時国会で政策委員の後任が決まります。

研究所理事長になって間もない8月10日、
正力国務大臣とともに東海村に出張し、ここに原子炉が据えつけられるという場所で、くわ入れ式をやります。

そのころの東海村はいずれを見ても空漠たる感じで、
別に取柄のない所だったのでした。


原子力研究所は特殊法人でした。
はじめは国立にしたいという大蔵省の強い希望がありましたが、
国立では新しい思い切ったことをやるにはなかなかうまく運ばないと。

世界中でもまだ軌道に乗ったとはいえない新しい技術上の機関だから、
民間から優秀な人を集める必要が大いにある。

そこで準政府機関にしておく方がいいと安川は考えたのでした。


開所式は昭和32年9月18日、原子炉第一基の火入れを行いました。

そして日本原子力発電会社が誕生します。
原子力発電が海のものとも山のものともつかないこのとき、
ばらばらにやっていたのでは研究のロスはきわめて大きいと、

政府も一枚加わって各民間会社共同で生まれた会社でした。
日本原子力発電会社は以下のような性格を持っていました。


1、この会社それ自体が試験台となって、はたして、原子力発電というものは採算が合うかどうか、具体的に調べること。

2、人材養成。将来、各電力会社がどうしても原子力に手を出さないとやっていけないというとき、
いまのままでは各電力会社は手を付けるにも人材がないということになる。

3、日本が自力で、材料を集め、設備万端を整えて、原子力発電所を作れるようにするということ。
いまのままでは、いつまでたっても、英国、米国、あるいはソ連などから原子炉を購入せざるを得ない状態にある。
一日も早く、これを日本の独力でやれるようにしなくてはならない。
そのためには外国の色々なタイプのものを会社が購入し、いろいろの経験をし、研究をするということがまず先決。



安川は最後に人生を振り返り、
こう述べています。


若いころから自分ではけんかをしたことはなかった。
仕事上でも人生上でも何か障害があると、
それと争ってけんかして突破するということは一度もなかった。

すると百八十度くらい逆行して遠回りをする。

しかし、とどのつまりは、
結局、自分の思うつぼにいってしまう。


安川は争わないでいながら、
結局遠回りして自分の思うように物事を運んでいたわけです。




安川の功績はいくつかありますが、
この日本原子力発電会社の動きは現代においても参考になるのではないでしょうか。


原子力発電は私たち東北の人間にとって、
とりわけ福島県民にとっては言い表すことのできない存在となっていますし、
多くの方々が「原発ゼロ」であるべきと感じていることと思います。

しかしその代替エネルギーを考えたとき、
それは太陽光なのかもしれませんが、

この方式で新エネルギーを採算ベースで
軌道に乗せる努力をしていくためのヒントがここにあるように思いました。


原子力もこの安川の時代には、
採算に乗るわけがない、
この会社は初めから軌道に乗らないと言われていたようです。


そういった意味ではどんな事業にも分野にも「起業」の時期があるのだなという当たり前のことを感じます。

新しいエネルギーをどのようにしてつくるか、
安川のように、私たちの世代が努力しなければなりませんね。













昭和の高度経済成長を築きあげた経営者たちの私の履歴書。過去の記事はこちらからどうぞ。












(第924号 平成25年3月26日(火)発行)

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【再録】倒産の危機を乗り越え、業界を取りまとめ、長官に─安川第五郎(日本原子力発電社長)その5─昭和時代の私の履歴書

昭和の偉人たちが何を考え、失敗にどう対処し、
それをいかに乗り越え、どんな成功を収めたのか、

日本経済新聞に掲載されている、
自伝コラム「私の履歴書」から
探ってみたいと思います。



私の履歴書─昭和の経営者群像〈9〉
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4532165091/cuccakatsu-22/ref=nosim




安川電機製作所は昭和の初期、
厳しい経営状況にありました。

そして安川は苦渋の決断をし、
やるべきこととやらないことを整理したのでした。


人生は何が起こるかわかりません。
そこへ満州事変が勃発します。

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【再録】不景気と人員整理で人生最大の困難を迎える─安川第五郎(日本原子力発電社長)その4─昭和時代の私の履歴書

昭和の偉人たちが何を考え、失敗にどう対処し、
それをいかに乗り越え、どんな成功を収めたのか、

日本経済新聞に掲載されている、
自伝コラム「私の履歴書」から
探ってみたいと思います。



私の履歴書─昭和の経営者群像〈9〉
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4532165091/cuccakatsu-22/ref=nosim



安川は米国のウェスチングハウス会社という電機製造会社に
見習い生として入りました。

そして大正3年、安川は米国を去ります。

そして帰国後の大正4年7月、合資会社安川電機製作所を、
父と兄弟三人で出資し、20万円の資本金で始めました。


しかし安川には、経営上の経験もなければ経済上の経験もありませんでした。
ただ父親から「やってみろ」「では」という次第で始まったので、
その考えたるやきわめてまじめでコチコチでした。

同じ電気機械でも、炭鉱用の機械は特別の考慮が必要でした。
坑内と坑外の機械を同じように考えては大失敗します。

安川のわずか二、三年の実習経験と机上の学問だけでは解決できない問題が現れたのでした。

しかし都合のいいことに安川の父は炭鉱を経営していました。
親会社として子会社の安川電機を盛り立てようと、大いに協力し、
機械の欠点をあれこれと指摘してくれたので、
順次改良を重ね、炭鉱向きのの機械を造ることができました。

今日の安川電機の土台には、
安川の父の力が大きく働いていたのでした。


同じ電機関係でも、日立製作所などは、
第一次欧州大戦のブームを機会に第一歩の発展をし、
大正12年の震災の時にも発展します。

大震災で東芝が大打撃を受け、東京にある会社、工場はほとんど全滅、
幸い日立は茨城県にあったので大躍進したのでした。


安川電機は日立の発展とはとても比較にならず、
安川曰く非常に幼稚な考え方でスタートしました。

安川たちはああでもない、こうでもないとあらゆる失敗を重ね、
苦労の連続で損をしてきました。

そしてようやく改良された機械ができることになったら、
世には不景気の風が吹きまくっていたのでした。


特にひどかったのは、昭和5,6年ごろ。

安川はもうこの会社はつぶれるかもしれぬと思います。

何をやってもうまくいかない。
配当どころの騒ぎではない。
赤字の連続。


普通の会社ならとっくに買収されるか解散させるかするところでした。

幸い同族組織の会社であったため、
ものになるかならないか、試験台として続くかぎりやれというのでした。


昭和6年頃従業員は700人ぐらいでした。
ちぢこまっていては自滅するばかりだとふくらませていましたが、
どうしてもかかえていられなくなり、
仕方がないので300人ぐらい整理します。

整理するとますます悪くなってきます。
これは危ない。

整理すればするほどちぢまるばかりで発展の機会は出てこない。

整理するなら、やはり一つの方針を立て、
その方針に沿い目標に向かって整理しなければ、いくら人を減らしても駄目だと。


───────────────────────────────────
【引用ここから】


いままでは日立や芝浦を向こうに回して、
電気の機械ならなんでも来いというわけで、
発電機から配電盤、モーターとなんでもやっていた。

それがいけないと気がついた。

小さな規模で大工場を向こうに回して、
なんでも来いといったところで、大工場には勝てるものではない。

この工場として何を造るのがいちばん適しているか、またそれが将来性があるか、と品目を定めて、
その方に一路力をそそぎ、他の雑多な方面はいっぺん整理すべきだ、
とこう考えたのである。


【引用ここまで】
───────────────────────────────────


変圧器や配電盤は設備がなくてもできる。
せっかく金をかけて設備をしたのだから、
これを利用しなくてはムダになる。

これを利用するのなら、モーターがいちばんやりやすい。

ということで、
昭和6年暮れ、安川はモーター専門の工場に変えることにし、
いままでやっていた変圧器も配電盤も一応中止することにしました

不況にあえぎ、会社不振にもかかわらず、
なぜそれを早くやらなかったかというと、それには理由がありました。

変圧器のエキスパート、配電盤の有能な設計者もいましたし、
熟練工もいました。
それを失うことが、残念な気持ちでいたのでした。

人員整理など単純にやれなかったのでした。

しかし、ときここにいたり、
会社浮沈の瀬戸際に来て、未練がましいことを言っていては何もできないと、
泣いて馬謖を斬る気持ちで、

モーターの担当者を残したほかは全部やめてもらったのでした。


安川の生涯中、
このことが一番苦難の絶頂であったと回想しています。


───────────────────────────────────
【引用ここから】


私は涙をのんで訳を話した。
それを言渡す時の苦しさはいま思い出してもぞっとする。

しかし、みんな私の苦しさと私の考えをよくくんでくれて、
だれ一人私をうらむものはなかった。

その代り私はやめてもらった人たちをどこまでも世話をしてやった

こうして昭和六年の終りに来て安川電機最後の整理を行ったのである。


【引用ここまで】
───────────────────────────────────



起業し、回転させるために、
あれもこれも手をつけていくと、
何をやっている会社なのかわからなくなるということは意外とある話です。

起業家は日々忙しく飛び回っているので、
とにかく売り上げを上げること、
利益よりも売り上げとなりがちです。

どこかで時間を定期的に作って立ち止まり、
自分のやりたいことは何か、
会社の経営理念は何なのか、

何をやって何をやらないのか考えることが大事です。


安川は苦渋の決断をし、
やるべきこととやらないことを整理しました。

その結果どうなるかは次回に続けます。









私の履歴書─昭和の経営者群像〈9〉
http://www.amazon.co.jp/o/ASIN/4532165091/cuccakatsu-22/ref=nosim



昭和の高度経済成長を築きあげた経営者たちの私の履歴書。
過去の記事はこちらからどうぞ。

http://cuccanet.blog72.fc2.com/blog-category-24.html








(第910号 平成25年3月12日(火)発行)

【再録】アメリカの工場で働き、九州で起業─安川第五郎(日本原子力発電社長)その3─昭和時代の私の履歴書

昭和の偉人たちが何を考え、失敗にどう対処し、
それをいかに乗り越え、どんな成功を収めたのか、

日本経済新聞に掲載されている、
自伝コラム「私の履歴書」から
探ってみたいと思います。



私の履歴書─昭和の経営者群像〈9〉



安川は日立製作所に入社し、懸命に働きました。

そして大正2年10月、日立を退職し、
米国に旅立ちます。


安川はこのころ、実務について、実際的な訓練を受けたいと思います。
これには大きな電気会社に入るのが一番手っ取り早いと、

米国のウェスチングハウス会社という電機製造会社に
見習い生として入ります。


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